酔っ払いのワルツ  A イシサイ



 仕事帰りにふと思いつき、サイトーを飲みに誘う。
 気持ちよく誘いに乗ってくるときもあれば、申し訳なさそうに断るときもある。サイトーが釣れる確率は6、7割といったところだったが、断られるときも生真面目な男のすまなそうな顔を拝めるので、サイトーを誘うという行為はイシカワのひそかな楽しみだった。
 そして、イシカワのひそかな楽しみは、もうひとつあった。


 その日もサイトーが上手く釣れ、イシカワはもうひとつの楽しみのタイミングをひそかに計っていた。
「もう少し飲むか?」
 二軒目のバーを出たところで、先に出ていたサイトーに声をかけると、
「まだ飲むのか?」
という呆れた笑い顔が返ってきた。
「年寄りは早く帰って寝た方がいいんじゃねぇのか」
 サイトーはポケットに両手を入れ、ゆらゆらと上体を揺らしながら機嫌良く笑って言った。時間をかけたとは言え、随分な量を飲んでいるはずだ。さすがに酔いが回っているらしい。
(いい頃合だな)
 イシカワは心の中でにやりと笑ったが、顔は渋面を作ってみせた。
「なんだよ、明日はお互い非番だろうが。付き合いの悪い奴だな」 
「あんたの身体の心配をしてるんだよ」
 任務中はともかく、普段のサイトーは素直で真面目な男だ。付き合いが悪いと言われ、サイトーは困ったように微笑む。
 イシカワは、サイトーのその表情を見てもう一押しだと踏んだ。
「おれのセーフハウスが近くにあるんだが、そこで飲み直さねぇか。眠くなりゃソファを貸してやるし、朝にはおれが車でおまえのセーフまで送ってやるよ」
 どうだ?と顎をしゃくると、
「まぁ……そこまで言うなら」
とどうにか同意が貰えて、イシカワは胸を撫で下ろした。


 繁華街からほど近い、イシカワお気に入りのセーフハウスはごくたまに女性を連れ込むこともあるため、常に清潔に保ってあった。
「いい部屋だな」
 部屋に一歩入るなり、サイトーは感心したように呟いた。
 広いリビングにはつやつやのフローリングの上に毛足の長いラグが敷かれ、ガラスのローテーブルと、黒い革のやたら大きなソファが置いてある。ソファの向かいではレンガ造りの暖炉の中でちらちらとグラフィックの炎が揺れ、暖炉の両側には新浜の夜景が広がる大きな窓がしつらえてあった。

「……女を連れ込む部屋か」
 最初は感心していたサイトーだが、さっと部屋を見回し、あっさり用途を見抜いてしまった。
 隣室の開いた扉から、キングサイズのベッドが見えたのだ。
「まあいいじゃねぇか。ここで酒を飲むと美味いんだよ」
「だろうな」
「まあ座れよ」
 イシカワに促され、黒いソファに落ち着かない様子で腰を下ろしたサイトーは、間接照明のみの部屋の薄暗さにちょっと顔をしかめている。
(お好みじゃあないってか)
 サイトーの様子にイシカワは苦笑した。まぁ、別に女性を連れ込むような目的でこいつを招き入れたわけではない。少々お気に召さなくても特に支障はないだろう。

「ここに客が来たのは久しぶりなんだぜ」
「本当かよ」
「ゆっくりしていけよ」
 お喋りをしながら酒とつまみを手際よく用意し、次々にテーブルに並べる。再び飲み始めた頃には、サイトーも幾分この部屋の居心地の良さに馴染んできたようだった。

「そういやサイトー、あの女とはどうなった?」
「あの女って?」
 サイトーがくいっとウィスキーを煽って聞き返した。
 二人はソファの両端に腰をかけ、半分だけ向かい合う状態で話をしていた。大きなソファは大の男が二人で向かい合ってもかなり余裕のある広さだ。サイトーはソファにいくつも置いてあったクッションを肘の下や腰の後ろに詰め込み、すっかりリラックスした様子で飲んでいる。
「付き合ってた女だよ。シャネルの香水の」
「ああ、シャネルの。とっくに別れたぜ」
 イシカワがボトルを持ち上げ傾けてみせると、サイトーは素直に自分のグラスを差し出した。
「なんだ、振られたのか」
 なみなみと継ぎ足してやりながら、意地悪く笑ってみせる。
「ああ。振られた」
 と、サイトーは意地の悪い笑みも気にする様子はなく正直に頷いた。
「約束を3回キャンセルしたら、振られたな。見事に」
「何だ、もったいない。何でキャンセルしたんだ」
「仕事が入ったからに決まってるだろ」
「キャンセルしても、きちんとフォローしなかったんじゃねぇのか」
「フォロー?」
 きょとんとした様子に、イシカワはつい吹き出す。
「埋め合わせだよ。約束を破った時の。プレゼントとか次のデートの約束とかあるだろうが」
「あぁ……」
 サイトーは曖昧に頷いているものの、そう言われてみれば、という様子だ。
「そんなんでよく今まで女と付き合ってこれたな」
「いや、だから一ヶ月で振られた」
「一ヶ月しかもたなかったのかよ」
「その前の女とは一週間だったかな」
 遠い目でグラスを揺らすサイトー。
「……おいおい、ろくに会えずに終わってんじゃねぇのか」
「女と付き合うのは苦手だ。パズが羨ましい」
(あれは付き合うってのとは違うだろ)
 イシカワは心の中で突っ込みを入れた。

(ま、そういう話が出てくるってことは、いい具合に回ってきたみたいだな) 
 イシカワはほんのりいい色になってきたサイトーを眺めて、髭を撫でた。
 そろそろ、お楽しみのタイミングだな。

「こっちのウィスキーも試してみろよ」
「あぁ……うん」
 イシカワが新たなボトルを出してきて勧めると、サイトーはぼんやりした顔で、それでも素直にグラスを差し出してきた。そこへたっぷりと琥珀色の液体を注いでやる。
 ソファの背もたれに右肘を置き、ふかふかのクッションに埋もれて頬杖をついたサイトーは、深いため息をついてグラスから少しだけ飲み、美味しそうににっこり笑うと、唇についた酒をゆっくりと舐めた。パズあたりが見たら、すぐさま押し倒しそうな艶っぽさだ。
 イシカワのこれまでの観察によると、この状態がサイトーの「完全酔っ払い状態」なのだ。
 酔いが最高潮に達し、最もふわふわして、最も気持ちのいい状態。そして、サイトーの面白い一面を見られる貴重なひと時でもある。

「なあ、サイトー」
 イシカワは、なるべく穏やかな声で話しかけた。
「シャネルの女は、どこがよかった?」
「あいつは……胸が大きかったな」
「何回くらい寝た?」
「そうだな、3、4回かな」
「あっちは良かったのか?」
「んん……そうでもなかった」
「何だ、上手くいかなかったのか」
「変な道具を使いたがるんだよ」
 ぼんやりとした表情のサイトーは、こちらの質問に実に素直に答えていく。
 この状態になると、サイトーはまるで催眠術にかかった被験者のように、何でも正直に答えてしまうのだ。

 最初にこのことに気付いたのは、数ヶ月前のことだ。
 ふたりともかなり酔った状態の時、
『前の女と別れてから最近ご無沙汰でなぁ。サイトーはどうだ』
とイシカワが親父思考の赴くまま放った質問に、ほわんとした表情のサイトーから、
『おれは別に……夕べから今朝の出勤前まで飽きるほどやってたからな』
と、目の玉が飛び出るような答えが返ってきたのだ。普段のサイトーなら口が裂けても同僚にこんなことは言わないだろう。
 ちなみに相手は昨日会ったばかりの女性で、夕べのうちに車で1回、ホテルで3回やったこと(どんな性欲だ)、だけど一夜限定の相手なので連絡先も聞かずに別れたこと、その前の週には付き合っていた女と路地裏でやっちゃったことなど、イシカワの興味深々の質問に、実にすらすらと答えが返されてきた。

(自白剤要らずだな、こいつは)
 敵にでも捕まってこの状態になることがあるなら公安職員としては非常に問題があるが、この手段で自白させられることはまずないから多分大丈夫だろう。むしろ、イシカワが捕まってこの情報が電脳から抜かれた時の危険性の方がはるかに高い。
 しかし今は、髭親父のあからさまなセクハラ質問に次々と素直に答えていくサイトーが面白くてたまらない。
 この状態まで持って行くのがかなり難しいが、最近は成功率が高い。普段ストイックな印象の強いサイトーの、意外に奔放な性生活をその口から引き出すことが目下のイシカワの楽しみであり趣味となっているのだった。

「最近は誰と寝てるんだ?」
「誰とって……適当に……そこらへんの奴と」
 サイトーはちょっと眠そうな表情になり、右腕の中に顔を埋めてため息をついた。
(まだ寝てくれるなよ)
 これからだからな、とイシカワは様子を伺う。
「そこらへんのって、ナンパでもしてるのか?」
「まさか。酒場で近くに座った女とか……誰とでも遊びたい女があっちから声をかけてくる」
 腕の中から、くぐもった返事が返る。意識はまだあるようだ。
「パズみたいだな」
「あれとはレベルが違う。あいつは誘蛾灯だ。普段遊んでない女まで引き寄せるからな」
(そんなにか?)
 実際パズが女を引っ掛けるところはまだ見たことがない。噂には聞いていたが、サイトーがこう言うからには相当なのだろう。

「手っ取り早く、9課の奴と寝たりしねぇのか? お前が誘えば、断る奴はいねぇだろ」
「馬鹿言え……9課のって……男だろうが。興味ねぇよ」
「どうして?」
「……聞くか、それ」
(ノーマルには愚問ってか)
 内心で苦笑する。自身は男女どちらでもいけるイシカワはあえて突っ込んで聞きたいところだったが、諦めて次の質問に移る。
「じゃあ、9課の奴が全員女だったら、寝るなら誰がいい?」
「……気持ち悪ぃ……考えたくもねぇ……」
 サイトーの肩が揺れる。くすくす笑っているようだ。
「じゃ、逆にお前が女だったら? 誰に抱かれたい?」
 我ながらしつこいとは思ったが、イシカワ自身も酔っているのだ。酔ったセクハラ髭親父の興味は尽きることはない。

「例えばバトーは? 包容力があるぜ」
 心にもないことを言ってみる。
「あいつは……兄貴みたいなもんだから、寝るのは嫌だ」
(ほぉ、そうなのか)
「少佐は? 唯一の、しかもいい女だぜ。胸も大きいしよ」
「いい女だが……ありえねぇ……胸に触ったら殺される」
(ま、そうだろうな)
「課長は?」
「……課長相手にどうしろってんだよ」
(む、確かに)
「じゃあ、ボーマは?」
「あいつはねぇな。ボーマはボーマだ」
(どういう意味だ?)
「トグサは? あいつは優しく抱いてくれそうだぜ」
「トグサもないな。やってる最中に嫁と娘の顔がちらつきそうだから……絶対嫌だ」
(ちげえねぇ)
 トグサがいつも見せびらしている家族写真がイシカワの脳裏に過ぎる。
「あいつと平気でやってるバトーの気が知れねぇよ……」
(む、それは禁句だぞサイトー)
「じゃ、パズは」
「……」

 ここで初めて沈黙が降りた。
(ん?)
「おいサイトー、パズとはどうなんだ?」
「……あいつは、スケコマシだ」
「いや、確かにそうだけどよ」
「パズはおれには興味ねぇよ」
 どうせ、と拗ねたような口調だ。
「いや、そんなことはないと思うがな」
 カナリヤを狙う猫のようにパズがサイトーをいつも目で追っているのを、どうやら当の本人は気付いていないらしい。
(まあ、教えてやることもねぇか。おれはキューピッドじゃねぇんだ)
 とりあえずこの質問は脇に置いておく。さらに突っ込んだらイシカワにはあまり面白くない回答が返ってきそうだった。

 それに、次が本題なのだ。
「じゃあ、おれとはどうだ?」
「イシカワ? イシカワは……」
 髭を撫でながら、舌なめずりせんばかりに聞き耳をたてる。
「……好きだな」
(おっ!)
 ぐっ、と小さくガッツポーズを作る。が、
「親父みたいで」
と言葉が続き、ガッツポーズはあっという間に崩れた。
「親父ぃ?」
「髭が……親父みたいで、なんか安心する」
 いつのまにか、腕から顔を上げたサイトーがソファに頭をもたせ掛けてイシカワをじっと見ていた。潤んだ黒い右目に見つめられ、親父と言われたことも忘れてぎくりとする。
 イシカワは思わず吸い寄せられるようにサイトーに近づいた。息がかかるほど顔を寄せ、もう一度尋ねる。
「どうだ。おれと試してみる気はねぇか?」

「……」
 サイトーの口がゆっくり開き、何か言いかけたところで不意にサイトーの目に光が戻ってきた。
 2、3回、目を瞬く。
「……何やってんだ、イシカワ」
 鼻先が触れ合うほど近づいている髭面に、冷ややかな声が投げかけられた。

「あ、いや、べつに」
 慌てて元の位置に戻りながら、イシカワは心の中でちっと舌打ちをした。
(もう少しだったんだがな)
 どうやらアルコールの魔法が解けてしまったらしい。サイトーは、手の中のウィスキーを見て、こんなの飲んでたかな、などと呟いている。完全酔っ払い状態の間の記憶はすっぽり抜けてしまうらしいのだ。
(そうじゃねぇと、あんなこと聞けねぇがな)
 とはいえ残念ながらお楽しみの時間は終わってしまったので、初期状態に戻すことにする。

「さっきから、おれが泡盛について講釈してやってんのに、おまえが全然聞いてねぇから寝ちまったのかと思ったんだよ」
 わざと不機嫌に言ってやると、サイトーはたちまち申し訳なさそうな表情になった。
「そうか。それは悪かったな」
 姿勢を直し、こちらにきちんと向き直ると、
「今度はちゃんと聞くから、続けてくれ」
と、すまなそうな笑顔を向けた。
(……ほんと可愛いねぇ、こいつは)

 これだからサイトーと飲むのはやめられない。
 イシカワはほくそ笑みながら、律儀に耳を傾けるサイトーに対し、夜が明けるまで泡盛の講釈を延々とぶったのだった。



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