酔っ払いのワルツ  B パズイシサイ+バトグサ




 室内の空気が張り詰めている。

 トグサは、さっきから息苦しくて仕方がなかったが、かといって席を外すタイミングも失ってしまったため我慢して座っていた。
 手に持ったコーヒーのカップを見下ろし、そっとため息をつく。

 昼下がりの9課。
 昼休みは何時から何時と決まっているわけではないため日によって時間帯は違うが、何となく皆がゆったりした気分になり休憩に入る、お昼過ぎの安らぎの時間。
 今日も休憩の時間に入り、食事をすませて共有室に何となく集まってきたのは5人だった。テーブルを挟んで向かい合わせのソファに、トグサとイシカワ、サイトーとパズがそれぞれ座り、バトーが一人掛けのソファに座っている。思い思いに新聞を読んだりお喋りをしたりと、最初は普段どおりだったのだ。

 トグサはハイネックの首元に指を入れ、緩めながら息をついた。さっきより息苦しさが増した気がする。ちらりと横を見ると、新聞に顔を埋めたバトーもさっきと同じ欄をまだ睨んでいた。



 きっかけは、パズのひと言だった。
「そういえば、イシカワ。最近サイトーとよく飲みに行くらしいな」
 それまでの会話が途切れた一瞬に、パズが煙草を取り出しながらさりげなく切り出した。自分の名前が出たサイトーがわずかに顔を上げたが、すぐにテーブルに広げた銃の方に意識を戻した。さっきから熱心に銃の手入れをしているのだ。
 パズの言葉に、イシカワはごく何でもないことのように頷いた。
「ああ。よく、というほどでもないがな」
 へぇ、と思ったトグサが、
「二人で飲みに行ったりするんだな」
と、ごく自然に二人の会話に乗ろうとにこやかに口を挟む。
 ところが、
「なんでサイトーを誘う?」
 という、あまりさりげなくないパズのひと言に、トグサは、自分が会話の輪からあっさり弾き出されたのを悟って口を閉じた。

 シュッとパズのライターに火が点り、愛煙家の口の煙草の先が赤く光った。最初の煙を吐き出しながら、パズは重ねて尋ねる。
「他の誰でもなく、なんでサイトーなんだ?」
「サイトーは付き合いがいいからな。誘いやすいんだ」
と、イシカワがしれっと答えた。
「おれは誘われたことがねぇな、そういや」
「誘っても行かねぇだろ?」
「そんなことはねぇさ。誘ってくれたら付き合うぜ」
「じゃあ今度一緒に飲みに行くか?」
「ああ。いいぜ」
 そこでいったん会話が途切れた。

 この辺りでトグサは、パズとイシカワの間に妙な空気の流れを感じ始める。バトーに視線をやると、バトーの方も妙な顔をしてこちらを見た。
 しばらく、パズの煙草がジジ、と燃える音や、バトーの新聞のガサガサという音だけが共有室に響く。サイトーは、さっきからずっと銃の手入れに集中しているのか、口を出す様子はない。

「サイトーと飲んでると」
と、今度はイシカワが口を開いた。
「結構面白いんだ。知ってるか」
「ああ知ってるさ」 
「ほう、お前もサイトーと飲むことがあるのか」
「そりゃあるさ。この間はサイトーのセーフに行ったしな」
 イシカワに向けて、パズの口から勝ち誇ったようにフゥと煙が吹きかけられる。
 一瞬顔をしかめたイシカワは、
「ほぉ」
と口の端を上げた。
「じゃあ、サイトーが酔ったらどうなるか知ってるんだな」
「……」
 イシカワのカウンターパンチに、パズは言葉に詰まった。が、曖昧に言葉を返す。
「そりゃあ、まあな」
「可愛いよなぁ」
「ま、サイトーは酔ってなくても可愛いけどな」

 言葉で詰め寄るイシカワに、パズも負けじと言い返す。
 それまで銃の手入れをしていたサイトーの手がいつの間にか止まっているが、二人とも気付いていない。

「酔った時がいいんじゃねぇか。素のサイトーが見れるしな」
「サイトーは普段でもおれには素を見せるけどな」
 パズの言葉に、サイトーが眉をひそめて隣を見る。
「あぁそうかい。だがおれは他の誰も知らねぇサイトーを知ってるぜ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて言ったイシカワは、その瞬間自分が地雷を踏んだことに気付いていない。
 サイトーの思いっきり不審そうな視線がイシカワに向けられた。

 『誰も知らないサイトー』という言葉に愕然としたパズは、
「おれは……」
と、必死に頭の中で反撃の言葉を探しながら言いかけたとき、イシカワの余裕たっぷりの目と視線がかち合って、あまりの悔しさに咄嗟に言い放った。

「おれは、サイトーとキスしたことがある」

 そこで、共有室の空気が完全に凍ったのだった。


 
 トグサは、新聞から顔を上げようとしないバトーに暗号通信を送った。
『なあ、どうしたらいいんだよ、旦那』
『おれに聞くなよ』
『共有室から出たいんだけど』
『待て! 頼むからおれを置いていくな!』
 出ようにも出られないんだけどなと思いながら、トグサはとっくに空になったコーヒーカップを握りしめる。カップは手の温もりで生ぬるくなっていたが、物をテーブルに置くという動作もはばらかられるほど、目の前の三人には緊迫した空気が流れているのだ。

「……パズ、おれといつキスしたんだ?」
 サイトーが隣の男にゆっくりと尋ねた。
「おれは覚えが無いんだが」
 パズは口をへの字に曲げて、黙り込んでいる。
「おれもぜひ知りたいなぁ、パズ」
 サイトーの尻馬に乗ったイシカワが意地の悪い笑みを浮かべて言うと、サイトーは今度はくるっとそちらへ顔を向けた。
「あんたにも後で聞きたいことがある。イシカワ」
「……うむ」
 イシカワの笑みがたちまち引っ込んだ。
「パズ、答えろ」
 サイトーの詰問に、しぶしぶという様子でパズが口を開いた。
「このあいだ、おまえのセーフで」
 パズの言葉に、バトーもさすがに新聞から顔を上げて聞き耳を立てた。
 サイトーが怪訝な顔になる。
「はぁ? 別に何もしなかっただろ」
「お前が覚えてねぇだけだ」
「……」
「あの晩の記憶、少し飛んでるだろ」
 眉を寄せて考え込んでいるサイトーに言い、パズはため息をついた。本当は自分の胸の中だけに仕舞っておきたかったのだ。

 あの晩、酔ったサイトーがあまりにもぼんやりしていたため、スキありとばかりにセーフハウスに上がりこんだ。酔いが回り、ほわんとした顔が可愛くて思わず玄関の壁に押しつけるようにしてキスをしたのだが、サイトーが素直に応じてくれたので思う存分口内を蹂躙しできたのだった。
 ところが、それはどうやら一時的な無意識状態だったらしい。キスに夢中になりすぎて息苦しくなり、いったん口を離した瞬間、パズはサイトーの様子に異変を感じてぎょっとした。本能的に危険を察知して飛び退いたのだが、あと一秒遅かったら正気に返ったサイトーに殴り飛ばされるところだった。この時ばかりは自分のスケコマシの本能に感謝する。
 自分の電脳に、積極的にキスに応じる艶っぽいサイトーの映像だけは『永久保存版』としてしっかり残したものの、パズは(本人が覚えてねぇキスなんか、自慢にもなりゃしねぇ)と思っていたのだ。
 それなのに、間抜けなことに自分から口に出してしまったのだった。

「……そうか、前々から酔うと記憶が少し飛ぶ気がしてたんだが……」
 サイトーはそう言ってため息をつくと、じろりとパズを睨みつけた。
「……で、パズは酔ってるおれに勝手にキスをしたと」
「勝手に……っていうか、嫌がらねぇからお前も同意してくれたものと思って」
「覚えてねぇな」
 冷たく突き放され、パズが口をつぐむ。

「で、イシカワ」
 サイトーの首がぐるりと巡る。
 矛先が自分に向けられたイシカワが首を竦めた。
「おれの何を知ってるって?」
「ただの言葉の綾だ」
「……あんたもおれが酔ってるときに何かしたんだな?」
「何にもしてねえよ」
「嘘つけ。イシカワと飲んだ時に特に記憶が飛ぶんだよ」
 じろりと睨まれ、イシカワは(自覚あったのかよ)と苦笑した。
「……ちょいといくつか質問しただけだよ」
「どんな」
「聞かねぇ方がいいぜ」
「……」
 イシカワの言葉に、何かを察したのかサイトーは少し顔を赤らめてぎゅっと眉を寄せた。

『なあ旦那、おれ、イシカワの<質問>の内容がすごーく気になるんだけど……』
『やめとけ。いま口を挟んだらサイトーに殺されるぞ』
 トグサとバトーの間で暗号通信が素早く交わされる。

「……とにかく」
 まだ少し顔の赤いサイトーが、立ち上がってパズとイシカワを睨みつけた。
「今後一切、おれはてめぇらとは飲みに行かない。食事にも行かねぇからな」
 しっかりと宣言し、テーブルの上の銃を手早く掻き集めてさっさと共有室から立ち去ってしまった。
 共有室の扉が閉まった瞬間、室内の空気が一気に緩む。

「……ふー」
 長くため息をついたイシカワが、やれやれとソファに沈み込んだ。
「酒の付き合いを断たれるとはな。くだらねぇことになったもんだ」
「……まったくだ」
 パズも応じるが、こちらは深刻な雰囲気でうなだれている。
 その様子に目をやったイシカワは、
「すまねぇな、ちょいとお前をからうだけのつもりだったんだが」
と、わずかながら申し訳なさそうな態度を滲ませて言った。
「おめぇがサイトーにちょっかい出したがってることは分かってたんでな。だが邪魔するつもりはなかったんだぜ、別に」
 言いにくそうに髭を撫で上げている。パズは少し驚いたように顔を上げたが、すぐにまた沈み込んだ。
「いや、おれは……自業自得だ。こっちこそすまん」
 両手に顔を埋めたパズが弱々しく呟く。クールで無口ないつものパズとは違う意気消沈したその様子に、トグサとバトーは同情したらいいのか笑ったらいいのか、微妙に両方の表情を浮かべて顔を見合わせる。
「……でもさ」
 やっとカップをテーブルに置くことができたトグサが、おそるおそる口を挟んだ。
「今すぐにでもサイトーにフォロー入れた方がいいんじゃないかな?」
「今、行くと殺される」
 パズの両手の間から、情けない声の返事が返る。
 そんなことないと思うけど、とトグサはもごもごと言う。見ていただけの外野としては、絶対大丈夫、と言いきる自信もないのだ。

「……しょうがねぇな」
 ここだけの話だぞ、とイシカワはパズに暗号通信を送った。
『酔ったあの状態のサイトーはな、ありえねぇぐらい正直なんだよ』
「……?」
 パズは意味を汲み取れなかったのか、顔を上げてイシカワに目で問いかける。
『だから、あの状態のサイトーがお前のキスを嫌がらなかったってことは、つまりそういうことなんだよ』
『つまり……』
 イシカワの言葉にみるみる生気を取り戻したパズは、すっくと立ち上がった。
「そういうことか!」
 生き生きと言い放ち、パズは脱兎の如く共有室を飛び出していった。

「……あー、やれやれ。昼間っから疲れちまった」
 コキコキと肩を鳴らしながら立ち上がったイシカワは、ちょっともったいねぇことしたなあ、などと呟きながらダイブルームに消えた。
「そういうこと? ……どういうことなんだ?」
 最後のやりとりを把握していないトグサが、首を傾げて呟いた。
「トグサ、いい子だからあいつらのことにはこれ以上首を突っ込むなよ」
 改めて新聞を広げたバトーが、低い声で忠告する。バトーは何となく状況を察したのだ。
 ともあれ、ここ最近ウロウロと鬱陶しかったパズと鈍感なサイトーがこれでやっと落ち着くかと思うと、同僚としてはひと安心というところだ。

 だが、やがて聞こえてきた銃声とパズの悲鳴に、
(やっぱり駄目か……)
と、イシカワとバトーが心の中で同時に呟いたのだった。

                                                  


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