はじまりはいつも F



 夜の公園は湿った冷たい空気と、ざわざわという木々のざわめきに満ちていた。
 繁華街からそれほど離れていないのに、広いこの公園に入ると街の喧騒からたちまち遠ざかる。今日は天気が悪いこともあり、遊歩道にも人影はまばらだった。
 サイトーは、冷たい風に頬を撫でられ、ふと身震いした。そういえば上着を9課のロッカーに入れていたのを忘れていた。今朝も薄着で寒い思いをしたため、帰りはそれを着て帰ろうと思っていたのだが。
 空はいつ雨の軍勢が押し寄せてきてもおかしくないほど淀んでいる。置き傘をしていないため傘くらいコンビニででも買えばよかったのだが、そうして増えたビニール傘がセーフハウスの玄関に何本も転がっているのを考えると、どうしても買う気が失せるのだった。
 ジムでさんざん汗をかいたため帰りにシャワーを浴びた身体は、既に湯冷めしている。サイトーは、身体が疲れと寒さですっかり重くなっているのを感じた。
 ――何やってんだかな……。
 普段から自己管理には気を遣っているサイトーは自嘲して、重い足をせかして歩いていた。

 やがて、ぽつり、と肩に水滴が落下してきたかと思うと、次々に後続の雨粒が頭や肩へ落ちてきた。
 チッと舌打ちをし、走り出そうとしたとき、不意に後ろに気配を感じてサイトーは振り向いた。
「……パズ?」
 意外なほど近くにいた男の顔を見て、サイトーは思わず声を上げる。
 なぜか不機嫌な表情のパズは、持っていた傘を広げると、サイトーの方へ差しかけてから仏頂面のまま言った。
「雨に濡れるのが趣味なのか? お前は」
 サイトーが驚いた顔をしていると、パズは傘の下に二人とも入れるくらいまで歩み寄った。
「……言っとくが、通りすがりだからな」
 わざとらしく断りを入れたパズに、サイトーは問い返す。
「車じゃないのか?」
「……車は公園の駐車場だ」
「……で、わざわざここを歩いてたのか?」
 サイトーの言葉に、決まりの悪そうな顔をしたパズは、しばらく黙り込んだのち、
「送るから乗っていけよ」
と、顎で来た方向を指した。

 だが、サイトーは逡巡した。
 今朝のこともある。パズの車に乗るということは、誘いに乗るということだろうか?
 サイトーのためらいを察したのか、パズは目を逸らして言った。
「それともこの傘をやるからこのまま歩いて帰るか?」
 そして、サイトーの答えを聞く前に、
「そうなるとおれが濡れることになるけどな」
と、付け足した。
 サイトーは思わず苦笑した。


―――


 サイトーを伴い、車に乗る頃にはパズの不機嫌も直っていた。
 イシカワの思う壺になっていると思うと正直面白くなかったが、彼のおかげでこうしてサイトーを拾うことができたのも確かだった。
 助手席にサイトーを座らせ、
「後部座席にタオルが置いてあるから使えよ」
と顎で後ろを指したパズは、エンジンをかけてヒーターをつけた。だが、シートベルトを締めようとして手をかけたところで、そのまましばし考え込んだ。
 そういえばこの後のことは何も考えていなかった。とりあえずサイトーが雨に濡れることだけは回避したいという思いでここまでやってきたが、車に乗せてからのことは何も考えていない。
 送る、とは言ったものの。
 ――せっかくのこの機会を逃すのか?
 今朝、拒絶されたとはいえ、サイトーの顔を見ているとどうにも自分が抑えられなかった。

 とんとん、とハンドルを指で叩いているパズをサイトーはしばらく横目で見ていたが、ふと思い出して後部座席の方に身を乗り出し、シートの上を探った。
 すぐにタオルを探り当てたサイトーは、身を起こして尋ねる。
「パズ、タオルってこの……」

 その瞬間。
 いきなりこちらへ向き直ったパズに、乱暴に引き寄せられ抱き締められた。
 今朝と同じパズの香りがサイトーを包み、動揺して息を呑む。
 運転席から乗り出すような窮屈な姿勢でサイトーを抱き締めたパズと、きつく抱き締められ息を詰まらせたサイトーとの間に再び沈黙が降りた。

 サイトーが嫌がって逃げるかもしれない、と思えば思うほど、抱き締めたパズの腕に力が籠もる。
 しかし、サイトーはしばらくしてため息をつき、片手をパズの背中に回した。
「お前こそ、雨に濡れた男を抱きしめるのが趣味なのか?」
 からかうようにそう言うと、落ち着けよ、と軽く背中を叩く。
「……言葉で言ってくれないとわかんねぇよ」
 そこでようやくパズは、サイトーを抱きしめる腕を少し緩めた。
 そして、意を決したように尋ねる。
「……キス、してもいいか?」
「…………」
 一瞬の沈黙。
 その直後、サイトーが噴き出す音が聞こえ、続いて抑えた笑いでサイトーの身体が揺れた。
「おい、何だよ」
 あっさり雰囲気を壊されたパズは、憮然としてサイトーの顔を覗き込む。
「だってお前――おれはてっきり……やらせろ、とか、抱かせろ、とか……」
 サイトーは、声にならない笑いの合間にさもおかしそうに言い、
「キ……キスってお前……しかも疑問形……」
と、苦しそうに笑い続けている。
「いや、いくらおれでもいきなり『やらせろ』ってのは……」
 不満気に呟いたパズは、普段自分が一体どういう目で見られているのかと眉を寄せる。

 その時だった。
 不機嫌な表情のパズの顔を見てふと真顔になったサイトーが、おもむろに両腕を上げたかと思うと、パズの頭を両側から抱えるようにして引き寄せ、その唇を塞いだのだ。
 ちゅ、と音がしてすぐに唇が離れ、
「まずはキスから、か? 案外お行儀がいいんだな」
と、間近で囁くサイトーの吐息が唇にかかる。
 パズは一瞬驚いたが、サイトーの唇が数センチも離れないうちにその身体を引き寄せ、再び唇を重ねた。
 サイトーもパズの頭を抱えたまま、キスを返してくる。
 やがて、お互いの舌を絡め、吸い上げ、唾液も吐息もすべて我がものにしようと争うように唇を貪った。
 ちゅ、くちゅ、という水音に加え、二人の荒い息遣いが車内に満ちる。

 興奮したパズの手がサイトーの身体を服の上からまさぐり、背中から脇を撫で、脇から胸へ、そして腹へ滑り降りて下腹部を撫で始めたとき、
「ま……待て待て……パズ、おい」
とパズの頭をもぎ離し、サイトーが慌てた声を出した。
「こ、こんなとこでやるつもりか?」
「こんな……?」
 荒い息をつきながらぼんやり呟いたパズは、やっとここが公園の駐車場で、いつ誰が来るともわからない状況だということに気が付いた。
 仮にも公務員の自分たちが、こんなところで行為に及ぶわけにはいかない。
 ちょっと考えたパズは、
「この近くにおれの部屋がある。……来るか?」
と、サイトーの右目を見つめた。
 お互い興奮の熱に浮かされた目で、しばらく見つめあう。

 やがて、サイトーがかすかに頷いたのを確認すると、
「じゃあ……」
 腕を緩めかけたパズは、
「……車を出す前に」
と言うなり、再びサイトーを抱き寄せてその唇を塞いだ。

 
 

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