はじまりはいつも B



 今朝降っていた雨はいつの間にかやみ、灰色の空が新浜の街の上に広がっていた。
 昼間だというのに太陽は見えない。
 暗く淀んだ天気は、まるで今の自分の心の中のようだとパズは思った。

 張り込み中の車内。
 隣にはボーマが座っているというのに、パズは今朝の出来事を思い返すとため息が出そうになった。
 何だあのザマは。普段の自分からは想像できないほど衝動的な行動に、思い出すたび恥ずかしさのあまりこの車から喚いて飛び出し、駆け回りたくなる。
 サイトーに少佐のイタズラかと訊かれたとき、そうだと答えればよかったかもしれない。むしろ、自分らしくないあの行動は無意識ではなく少佐にハッキングでもされたのだと思ってしまいたい。
 女性相手にだってあんなことなど。
 ――いや、したことはあったか……。
 パズは記憶の底に沈んでいたことをふと思い出し、眉をしかめた。

 数年前、同棲までしていた女がいた。
 一度寝ただけでいい、傍を通り過ぎていくだけでいいと思えなかった、数少ない女のうちのひとり。
 彼女を見ていると、たまに抱きしめたくなることがあった。泣かせてしまったり、守ってやりたいと思ったりしては抱きしめたものだ。
 だが、サイトーの場合はきっと違う。
 違う、とは思うのだが、ではどういう衝動なのかと考えるとよくわからない。
 彼女の場合よりもっと、本能的なものとでもいうか……。

 ――ゴーストの囁きなのよ。
 ふと少佐の声を思い出し、どきりとした。
 ゴースト。心、記憶、自分が自分であるためのすべて。
 自分のゴーストがサイトーを求めている?
 ――……おれは本気でサイトーを好きなのか?
 思ってから、パズは心の中で首を振る。
 まさか。同僚で、しかも男なのに。
 だが今朝、抱きしめたサイトーが腕の中で身を捩ったとき、ああ、拒絶されたな、と思ってがっかりした。さぞ嫌だったに違いない。離してくれ、という声も今思えば嫌悪に満ちていた気がする。
 別れ際に言い置いていった、そうか、という言葉にも冷たい響きを感じた。そうか、お前はいつもそういう目でおれを見ていたのか。と。

 そう、パズは自分でもよくわからないまま失恋していたのだ。
 恥ずかしさで誤魔化そうとしていたが、実は、サイトーに拒まれたことで自分は激しくショックを受けているのだ。
 そのことにやっと思い至ったパズは、無意識にため息を漏らした。

 すると、唐突に目の前に茶色い何かが差し出され、パズは顔を上げた。
「食べる?」
 ボーマがどこからともなく紙袋を出してきて、その中身を差し出してきたのだ。
 目の前にあったのはたい焼きだった。
 ボーマはパズににっこり笑った。
「元気ないぞ。腹減ってるんだろ」
 パズはボーマの手の中にあるこんがり焼けた茶色い魚をじっと見つめた。
「……義体用だよな?」
「もちろん」
 パズはたい焼きを受け取りながら、そういえば腹が減ってたな、と思った。



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