トグサ、男の食彩 @



 トグサは緊張していた。

 こんな気分は前にも味わったことがある。
 あれは初めてパラシュートの降下訓練を受けた時だった。
 パラシュートを背負い、痛いほどベルトが身体を締め付けるのを感じながら、大きく開いたヘリの扉から目のくらむような地上を見下ろした時。
 ――さあ、飛び降りろ!
 教官の声がして……

 トグサは目を一度ぎゅっと瞑り、再びゆっくりと目を開くと、右手に持った包丁を握り締め、目の前のまな板に載った野菜を睨み付けた。

―――

 今日の夕方、
「今日の晩御飯はおれが何か作ってやるからな」
と言い出したのはトグサ自身だった。
 バトーはしばらく黙り込むと、
「……期待はしてないから、無理はするな」
と言い、むっとしたトグサの頭を軽く叩いてから、
「おれは少し遅くなるから、先に帰ってろ。冷蔵庫のものは何でも使っていいから」
と後ろ手に片手を上げながらハンガーへ消えていった。

 バトーのセーフハウスにあったのは、ジャガイモと人参と玉ねぎだった。
 帰りにトグサが買ってきたのは牛肉のブロックだったから、漁っていた戸棚の中からカレーのルウが出てきた時には、もうカレーライスを作るしかない、という気分だった。
 スーパーで牛肉を買った時には、実はステーキを焼く予定だったのだ。
 ――ステーキなんて、肉を焼くだけだろ?
と思っていたからである。
 だがカレーの箱を見ているうちに、トグサは、バトーをちょっとびっくりさせてやろうと思いついたのだった。

 最近、サイボーグ食しか食べられないと思っていたバトーが、実は生身の自分と同じ物も食べられると知った。食べても文字通り血肉にはならないのだが、味わって咀嚼して飲み下す、という食べる一連の行為自体は出来るらしい。
 それを知ってから、時々トグサはバトーに頼んで食事に付き合ってもらうようになったのだ。もちろん、たくさんは食べられないのだが、バトーもトグサと同じものを味わって食べることを楽しんでいるようだった。完全義体のバトーが独りで食事をするときに普通の食事を採ることに意味はない。だが、バトーもかつて生身だった時に味わった食事をトグサと共にとることに楽しみを見出したのだろう。
 ともかく、これまでトグサが美味しそうに食べるのを、バトーは味気ないビスケットのようなサイボーグ食をつまみにビールを飲みながら待っているだけだった頃に比べると、お互い帰宅後の時間が格段に楽しくなったのは間違いない。

 だが、今までその食事自体はバトーが作るか、デリで買ってくるかのどちらかだったのだ。
(たまにはおれが作ってやるんだ)
 というわけで、腕まくりをして包丁を握ったトグサは、生まれて初めての料理に取り掛かったのである。

―――

 今、トグサはジャガイモと格闘していた。
「あッ! この野郎!」
 叫んだ途端、またトグサの手から逃げ出したジャガイモが、ごん、と音をたててシンクに転がった。
「……バトーはあんなに簡単そうに出来るのに……」
 バトーがキッチンに立つと、あっという間に料理が出来上がるのだ。もちろん凝った料理はできないようだったが、いかにも「男の料理」のそれらは充分美味しくて、たっぷり量があった。
「……おれだって、カレーくらい」
 トグサはカレーの箱の裏に書いてある、申し訳程度のレシピをもう一度見直した。

『1.深手の鍋にサラダ油を熱し、ひと口大に切った野菜と肉を炒めます。』

 ひどく簡単に書いてあるその一行を、トグサは先程から数十回は目を通している。
『鍋にサラダ油を熱し』
というのは既に準備してある。いつも妻がカレーの時に使っているような鍋を探し出し、サラダ油を(量がよくわからないのでとりあえず鍋底が隠れるくらい)入れて、火にかけた。
 だが、その次の、
『ひと口大に切った野菜と肉』
を準備する間に熱しすぎた油が煙を上げ始め、
「うわぁ!」
と、悲鳴を上げて慌てて火を止めたトグサは、首を傾げ、レシピを睨み付けてから、妙な匂いの漂う鍋は諦めてひとまず放置してあるのだ。

 肉はまず問題なかった。上等のその肉は柔らかく、「ひと口大」にすいすいと切れて既に鍋に放り込んである。
 ジャガイモの皮も、随分身を削ったものの、とりあえず剥けた。トグサが厳しい目つきでそれらを吟味したところ、どうやら既に「ひと口大」の大きさになっているようだったので、同じく鍋に放り込んだ。

 問題は、人参だった。
「人参って、皮を剥くのか?」 
 トグサは眉を寄せ、美しいオレンジ色の野菜をじろじろと眺め回した。
 ジャガイモと違って、きれいに洗えば問題ないような気がする。試しに中ほどで切ってみたが、やはり皮と実の区別はつかなかった。……きっと、皮は剥かないのだろう。
 皮の問題は解決し、トグサは切った人参の半身をじっと見つめた。
 どう見てももう片方とは大きさが違う。大体、こんな先細りのものを、どうやって同じ大きさに切るんだ?
 トグサは妻が作ったカレーを思い出してみた。人参の形状はどうだったろう。確か、輪切りになっていたり、娘を喜ばせるために花の形になっていたりした気がする。
 よし、花というのはまず無理だから、輪切りでいこう。
 転がりやすい人参に慎重に刃をあて、すとん、すとんと下ろしていく。思った通り、様々な大きさの輪切りが出来たが、妻が輪切りなのだからきっとこれで間違いないはずだと自分を納得させた。
 いつも帰宅時間の遅いトグサは、妻が料理するところを見たことがなかったのだ。

 人参を鍋に放り込むと、次は玉ねぎだった。
「これは、剥くよな?」
 確認するように呟き、玉ねぎのとがった方の頭に指をかけ、茶色い皮をぺりぺりと剥いてみた。簡単に剥けていくところをみると、これはやはり包丁ではなく、手で剥くようだ。
 ちょっと得意になったトグサは、調子よくぺりぺりと剥き始めた。
 が、途中で手を止める。
「……どこまで剥くんだ……?」
 最初は調子良く剥けていたが、次第に皮が厚くなり、途中からバリッと音をたてて千切れてしまうようになったのだ。それを何度か繰り返し、トグサはやっと気が付いた。
 きっと、これは剥きすぎなのだ。……だが、どこからが剥きすぎなのか?
 じっと玉ねぎを観察する。
 ところが、
「んがぁっ!!」
 突然、目に痛みが走ってトグサは悲鳴を上げた。沁みるような鋭い痛みに襲われ、目を開けていられなくなったのだ。
「イテ、イテテテテ……!!!」
 手で目を擦ると、さらに酷い痛みが目を覆った。
「何だ何だ?!!」
 あまりの痛みに喘ぎながら、トグサはハッとした。
 ――玉ねぎを切ると、涙が出る。
 と、どこかで聞いた気がする。玉ねぎを切ったことのないトグサは、それはアレルギー反応か何かの話だと思っていたのだ。
「……これって、誰でも、涙が出るのかよ?!」
 涙と共に鼻水まで垂れ始め、トグサは口だけで喘ぎながら、毒素を放つ玉ねぎをつまんで換気扇の下へ追いやり、換気扇のスイッチを入れた。
 手を石鹸で洗い、目を洗い、ついでに顔を洗っても、まだ痛みは去らない。
「……催涙ガスかよこれ……!」
 ふうふうと息をつき、恨めしそうにたまねぎに目をやった。

 あの暴徒鎮圧弾のような野菜を、一体、どうやって切れというのだ?


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