トグサ、男の食彩 A
「クソ……バトーのやつ、非常用のガスマスクとか置いてないのかよ……!」 準備した玉ねぎを切り終える頃には、トグサの目は真っ赤になっていた。 もうどういう大きさに切るかなど、どうでもよかった。とにかくいっぱいに伸ばした手で玉ねぎを押さえ、同じくいっぱいに伸ばした手の先で包丁を扱うので危ないことこの上ない。包丁は何度も空を切ったが早く切り終えることだけを念じながら、息を詰め、目を細めて必死で切っていった。 「うちの奥さん、一体どんな魔法を使ってんだ……?」 きっと主婦しか知らないコツがあるのに違いない。途中、本気で妻に電話をして尋ねることを考えたが、一体どこで玉ねぎを刻んでいるのかを聞かれると答えようがないので思いとどまったのだ。玉ねぎひとつで妻にいらぬ心配をさせるのも間抜けな話である。 トグサは真っ赤になった目を水で流すと、大きく息をついた。 キッチンは玉ねぎから放たれた鼻をつく匂いが漂っていたが、換気扇を最強に設定してごうごうと回してあるので、きっとそのうち和らぐだろう。 とりあえず、準備した材料は切り終えた。 鍋を覗き込むと、生の材料がこぼれんばかりになって入っている。 もちろんトグサは、箱の『材料の分量のめやす』の欄など気付きもしていない。 「ふう……我ながらよく切ったもんだぜ」 トグサは満足げにため息をつき、カレーの箱を手に取った。 次はやっと『炒める』という段階だ。 「……」 火をつけ、木べらで鍋をかき混ぜようとしてトグサは固まった。 「……こぼれるんだけど……」 木べらを動かそうとするたびに、鍋からぼろぼろと玉ねぎがこぼれ落ちる。玉ねぎを最後に切ったので、一番上に盛り上がっているのだ。 「……炒め……なくてもいいか?」 カレーの箱に意味もなく尋ねてみる。 「火が通ればいいんだよな? 水入れて煮たら火が通るよな? な?」 ぶつぶつ言いながら炒めることをあっさり放棄したトグサは、シンクに鍋を下ろし水道の蛇口をひねった。 ざあ、と具材の上に水が降り注ぐ。適当なところで水を止めたトグサは、思い出したようにカレーの箱を取り上げた。 『2. 900mlの水を鍋へ入れて火にかけ、沸騰したら火を弱めて具に火が通るまで煮ます。』 「900ml……」 鍋を見下ろすと、既に八分目ほど水が入っている。それでも具材の方が多いのだが、水の適量が一体どのくらいの量なのか見当もつかない。 任務中、怪我をした人間の出血量を地面に落ちた血液の広がり方を目安に判断できるトグサだったが、単に水の量を量れと言われるとさっぱりわからない。たしか、水を量るコップみたいなものがあるはずなのだが、キッチンのどこを探しても見当たらなかった。 「900ml……」 もう一度呟くとしばらく鍋を見つめていたが、まあいいか、と呟くと、トグサはそのまま鍋をコンロに戻し、火を点けた。 その時、 『トグサ』 とバトーから電通が入り、口を尖らせて慎重に火加減を調節していたトグサは飛び上がった。 『そろそろ帰るが、晩メシは出来てるのか』 『もうすぐ出来るよ。……たぶん』 『期待はしてないからな。無理するなよ』 『無理なんか……』 『あと、火事を出すなよ。うちのコンロはヒーターじゃないし、火力も強いからな』 『わかってるよ!』 コンロをいじっていたトグサは思わずあたりを見回しながら言い返した。……まさか、覗いてるんじゃないだろうな? 『ちなみにメニューは何なんだ』 『カレーライ……あッ!』 『どうした?!』 トグサが突然声を上げ、バトーは電通の向こうで息を呑んだ。 『まさか火が……』 『ライス! ご飯炊くの忘れてた!』 『……なんだ』 安堵したようなバトーの声。 『うちの炊飯器はすぐ炊けるから、今からでも間に合うだろ』 『そ、そっか。よかった』 『……念のため聞くが、ご飯は炊けるんだろうな?』 『米と水入れてスイッチ入れりゃいいんだろ?』 『……米はとがないのか?』 『とぐ?』 『……』 電通の向こうでバトーが絶句した気配がして、やがて呆れたような低い声が電通越しに聞こえてきた。 『まあ、<米の炊き方>でネットで調べてみろ。それから、分量もちゃんと量れよ』 『わかったよ』 そうか、ネットで調べるという手があったな、と思いながらトグサはバトーとの電通を終わらせた。 人参や玉ねぎの切り方も、カレーの作り方さえも、ネットで調べればもっと詳しく出ていたはずなのだが、トグサはすっかり忘れていたのだ。 「まあ、あとちょっとだし、もういいか」 ぐつぐつと沸きはじめた鍋を見ながらぽりぽりと頭を掻いた。 ――― バトーが帰宅したのは、それから30分ほど後のことだった。 (どんなカレーが出来てるんだか) 苦笑しながら扉を開けた瞬間、怪しげな匂いがバトーの鼻を襲った。 「……やりやがったな……」 呟いて、どの鍋がダメになったかな、と思いを巡らせる。 「トグサ。……トグサ?」 呼びながらキッチンを覗くが、いろいろなものが散乱しているほかは人の気配はない。バトーが野菜の切れ端を踏みながらコンロへ近づき、匂いの源らしい鍋をのぞきこむと、案の定、想像通りの状態になっている。 「……それにしても、何でこんな大量に……」 深鍋の中に黒く盛り上がっている具材は20人分くらいありそうだ。黒い塊からはかろうじてカレーの匂いはしているが、もはや料理と呼べるシロモノではない。 念のため、炊飯器も開けてみたが、蓋の隙間から流れ出した糊状の液体が固まっており、蓋を開けるとパリパリと音をたてて零れ落ちていった。見るからに芯が残っている米が白い液体に漬かっているところをみると、これも失敗したらしい。 「分量が適当すぎだ、馬鹿」 呆れてため息をついた。 薄暗いリビングへ行き、明かりを点けてトグサを呼ぶ。 「おい、トグサ。……何やってるんだ電気も点けないで」 バトーがソファに横たわり丸くなっているトグサへ声をかけてのぞきこむと、不機嫌なうなり声が聞こえたかと思うとますます丸くなってしまった。ソファのクッションを抱き込んで顔を押し付けているが、よく見るとふくれっ面をしているらしい。 「子供か、お前は」 「……時間、かかったのに……」 不満そうなくぐもった声が聞こえる。 「……あんなに苦労したのに……」 「だから言ったろ、火力が強いって」 「……ルウを入れたらあっという間に焦げて……」 「ルウを入れたら焦げやすいから気をつけろって書いてなかったか、箱に」 「……。……書いてた……」 「後から気付いたんだろ」 「うー……」 「お前、カレーも作ったことなかったのか?」 バトーがにやにやしながら言うと、クッションの端からトグサがぎろりと睨みあげてきた。 「まあいい、片付けは後にしてとりあえずメシ、食おうぜ」 「食べられないぜ、あれ」 「見りゃわかる」 苦笑しながら、バトーはいい匂いを放っているデリの袋をテーブルに置いた。 「……晩メシ、買ってきたのかよ」 「言ったろ、期待してないって」 「あんたなぁ……」 「食わないのか?」 ふくれっ面のままソファに身体を起こしたトグサは、ぼさぼさの髪を掻きながら口を尖らせた。 「食うよっ」 ――― 「なあ、サイトーって料理できるのか?」 「……はあ?」 次の日。任務の最中、突入の機会を窺いながら偽装バンの中にトグサと二人で待機していたサイトーは、訝しげな表情で聞き返した。 モニターで、先行している素子の動きをチェックしながらの待機である。それなりに気を張っていたところへトグサにいきなり場違いな質問をされ、サイトーは一瞬何のことかわからなかったようだ。 「りょう……ああ、料理か?」 「そう。料理。サイトー、料理したことあるか?」 「そりゃあるが……」 サイトーは、何でこんな時に、という表情で答えたが、トグサはお構いなしに尋ねる。 「本当かよ?! 何が作れるんだ?」 「何って……カレーとか」 「カレー?! カレー作れるのかサイトー?!」 素っ頓狂な声で聞き返され、サイトーは驚いて一歩さがった。 「いや、その、カレーっつっても普通の」 「すごいな!! サイトー!!」 「いや、あんなもん子供でも作れるだろ。失敗する方が難し……」 言いかけたサイトーは、その途端、トグサが泣きそうな顔になったのを見てぎょっとして言葉を切った。 「カレーってそんな簡単? カレーも作れないおれってダメなやつ? 子供以下?」 「あ、いや……その」 「やっぱり、カレーも作れないやつなんかダメダメなんだ……!」 トグサの涙声に自分が失言をしたことに気付き、サイトーはすっかりうろたえてしまった。 が、その瞬間、 『突入するぞ! 合流しろ!』 という素子の声でサイトーは我に返った。 「おい、出るぞ! 早くしろ!」 サイトーの怒鳴り声に、素子とともに先行していたバトーが振り向いて顔をしかめた。 偽装バンの中からサイトーに突き飛ばされるようにして出てきたトグサがごしごしと目を擦っている。さっきまで泣いていたような情けない顔だ。 『サイトー……トグサを苛めるなよ?』 『苛めてねぇよ!』 暗号通信でこっそり伝えてきたバトーに、サイトーは不機嫌に怒鳴り返した。 |
ダメトグが書きたかったというか、書き進めるうちにどんどんダメな奴になっていって・・・。トグさんすまぬ。
わからないことって最近はネットで何でも調べられますが、わからないなりに試行錯誤するのも悪くないと思います。トグサは試行錯誤というより四苦八苦ですが(笑)
某さまより、「トグサは調理実習したことないのか?」とのご指摘を受けましたが、したことあるけどきっと忘れちゃったんだと思います。ということにしてください(笑)
最後のサイトーさんは、わたしがサイトーさんを書きたかっただけなんです。だって好きなんですもの。
サイトーさんも、せいぜいカレーくらいしか作れないんじゃないかと思います。そういうところは不器用であってほしいという単なる希望ですが。
→ 目次へ戻る