追憶  C




「明日の退所式の準備はできたか?」
 マキタはそう言いながらサイトーのグラスに日本酒を注いだ。
「はい。式典用の制服も今朝届きましたから」
 かしこまってマキタの酌を受けながらそう答えたサイトーは、マキタがなみなみと酒を注ぐのを見て、
「あ、教官、そんなには」
と顔をしかめた。

 ここは官舎の一室、マキタの部屋である。サイトーら訓練生と違って個室を与えられているマキタの部屋に、サイトーは初めて招かれていた。
「遠慮するな。お前ももうすぐ二十歳なんだし。おれとこうして飲むことなんて、きっと最初で最後だぞ」
「はい。どうも……」
 こぼれそうなグラスを慎重に手元に引いてきながら、サイトーは言葉を探していた。口下手なサイトーは、マキタにもっときちんと感謝を表すべきだと思ってはいるのだが言葉にすることがなかなかできないでいた。
 明日にはここを出るのだ。それまでには、これまで世話になったマキタに何か伝えなくてはと思っていた。
 それを察したのか、マキタはテーブル越しにサイトーの肩を叩いて笑った。
「なんだ、何か乾杯の挨拶でもしてくれるのか?」
「あ、いや……その」
「はは。無理するな。お前の成績がいいだけでおれは充分嬉しいよ」
 にっこり笑ったマキタは、自分のグラスにも酒を注ぎながら、
「サイトーは優秀だったからな。教えたおれも鼻が高い。きっと正式に軍に入ってからも問題なくやっていけるよ。ほら、飲めよ。――言っとくが、残すなよ」
と、サイトーの手元を指して促した。軍の予備的な施設であるここも、上下関係の古い慣習が染み付いているのだ。
 サイトーはグラスに口をつけると、思い切って大きく一口飲み、そのままぐいぐいと飲み干した後、ぷはっと息をついてグラスを下ろした。
(っ……かなり強いんだな、この酒)
 一口目はすっきりして飲みやすいと思ったのだが、飲み干して息をついた途端、濃厚なアルコールが食道を灼いて下りていくのを感じ、サイトーはぎくりとした。
 そんなサイトーをじっと見つめながら、
「いい飲みっぷりだ」
と言ったマキタは、またサイトーのグラスに酒を注ぎ足した。
「……残すなよ」
 呟いたマキタの声にいつになく強引さを感じ、サイトーは戸惑いながらも言われたとおりもう一度グラスを呷った。

「――う、ん……」
 呻いた自分の声がやけに遠くから響いてくる。
 誰かが頬を叩いているようだが、何枚もの布の向こうから叩かれているように感じ、サイトーはぼんやりと首を振って目を開いた。
「ああ、よかった。大丈夫か」
 ほっとしたように言って上から覗き込んできたのは、マキタだった。
「……教官?」
「すまん。飲ませ過ぎたな」
 そう言われ、サイトーはやっと酒を飲んでいる途中だったことを思い出した。
 何杯空けたか覚えていない。途中から、何を喋っているかさえ解らなくなったのだ。
「……いま、何時……」
 ろれつが回らないが、何とかそれだけ言うと周りを見回す。どうやらマキタのベッドに寝かされているようだ。
 既に深夜になっていることに気づき、サイトーは焦った。
「……へやに、もどら、ないと」
 一日の日程は厳しく決められている。もちろん門限もある。
 サイトーは、回らない頭とはいえそれだけはまずいと感じ、必死に身体を起こそうともがいた。それをマキタが押さえる。
「大丈夫だ、お前の官舎にはおれがちゃんと連絡したから。今日はここで泊まっていい」
「でも」
「いいからここにいろ」
 両肩を押さえている手に力が籠もり、サイトーは口をつぐんで身体を横たえた。
 だが、マキタはそのまま動かない。
 肩から手を離さないマキタに、サイトーが戸惑った視線を向けると、
「……なあ、サイトー」
 マキタはぐっと顔を寄せて囁いてきた。
「……頼みがあるんだ」
 ただならぬ雰囲気を感じ、サイトーは咄嗟にまた身体を起こそうとしたが、そのまま身体の上に覆い被さられ、ぎょっとする。いつの間にか、マキタがベッドの上に完全に乗り、サイトーの身体を跨ぐようにして圧し掛かっているのだ。
「……なに、を……」
 言いかけたサイトーは、肩を押さえていた手が外れ、自分の服の下に潜り込んでくることに気づいて言葉を切った。ここまでくれば、何をされているかさすがに解る。
「やめて下さい」
 なるべくハッキリ言ったつもりだったが、自分の声は遠くから響いてくるばかりでいかにも頼りない。
「サイトー、抱かせろよ」
 耳元で囁かれ、サイトーはぞっとした。
 男に抱かれるなど、冗談じゃない。それがいくらマキタでも、だ。
「嫌だ、嫌です、やめて下さい」
 力の入らない腕で押し返そうとするが、いつの間にかベルトを緩められ、マキタの手が下着の中をまさぐっている。
「一度だけでいいんだ」
「う……ぁっ!」
 敏感な部分を大きな手で握り締められ、サイトーは悪寒が走って身を震わせた。
 気持ちが悪い。これは正気の沙汰じゃない。
 必死に身体を捩ってマキタの身体の下から逃れようとする。
「好きなんだ、サイトー」
 懇願するように囁かれても、嫌悪しか感じない。
 なおも身体をまさぐるマキタに、サイトーは、
「やめろ!」
と叫ぶと、何も考えず思い切り相手の顔を殴りつけた。
「うわっ!」
 おそらくマキタもかなり酔っていたのだろう、殴られた衝撃であっけなくベッドから転げ落ちた。
 この隙に、とふらふらとベッドから下りたサイトーの前に、さっと立ち上がったマキタが立ち塞がった。
「サイトー……!」
 怒りに顔を染めたマキタを見て、まずい、と思って凍りつく。
 次の瞬間、みぞおちに強烈な一撃を食らって、サイトーはたちまち失神してその場に崩れ折れた。

―――

 腹部に鋭い痛みを感じて、サイトーは目を覚ました。
「……う」
 呻きながら、ゆっくり身体を起こす。
 どうやらマキタのベッドに寝かされているようだ。部屋には人の気配はない。
 時計を見ると、殴られてからそれほど時間は経っていないようだった。
 殴られた? 何で殴られたんだった?
「あ……!」
 そこでやっとさっきまでの小競り合いを思い出し、サイトーは慌てて身体を探った。
 着衣は乱れてはいるが、脱がされてはいない。殴られたみぞおち以外には、身体に痛みや違和感もない。
(何も、されなかったのか)
 ほっと息をついた。
 途端に、吐き気が襲ってくる。
(ここじゃ、まずい)
とは思うが、間に合うものではない。
 たちまちせり上がってきたものが口から溢れ出し、サイトーはベッドの上へしたたかに吐いてしまった。吐き始めると止まらない。殴られた腹が痛み、咳き込むたびに苦痛に呻く。
 はじめは他人のベッドへ嘔吐することへの申し訳なさがあったが、
(クソッ、構うものか)
 さっきのマキタの仕打ちを思い出すと、どうでもよくなった。
 信頼していたたった一人の人間に、こんな形で裏切られたことがひどく悔しかった。怒りや腹立ちを感じるよりも、悔しくて悲しかった。
「畜生……!」
 ベッドを殴りつける。涙がこみ上げてきた。
「チクショウ……!」
 サイトーはベッドを殴りながら吐き、吐きながら声を上げて泣いた。

 その次の日、サイトーは訓練センターを正式に退所して軍に入り、二度とマキタに会うことはなかった。

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