追憶 D
次に目が覚めると、もう明け方だった。 サイトーが目を開けて顔を窓に向けると、東の空はもう明るくなっていた。 胸の上にいたパズの頭は、いつの間にか隣の枕に移動している。 喉の乾きを感じ、サイトーはそっとベッドを下りて部屋を出た。 冷蔵庫から水のボトルを出して飲みながらソファへ行くと、ローテーブルの上に置いたままになっていた写真が目に入った。 写真を手にとってソファに腰掛ける。 裏返して、もう一度日付とサインを眺めるうち、おや、と思った。 (マキタはこれを、おれに渡すつもりだったんだろうか) そうでなければサインをする理由がない。 サイトーは口をきゅっと結ぶと、最後に見たマキタを思い出した。 ――― 退所式には、もちろんマキタも出席していた。彼も相当酒を飲んだはずなのに、いつもと変わらない一糸乱れぬ制服姿で、教官らの席にきちんと座っていた。 サイトーは二日酔いが抜けず、腫れぼったい顔のまま出席することになったが、周りを見ると前日は皆ハメを外していたのか同じようにぼんやりした顔の者が多く、目立たずにすんだ。 式典(とはいっても簡単なものだったが)の後、会場を出るサイトーにマキタが物言いたげな表情で近づいて来たが、サイトーは咄嗟に背中を向け、足早にその場を去った。 人混みを掻き分けてマキタから逃げるように走る。式典に列席した両親との再会を喜ぶ若者や、これまで世話になった教官や友人同士で別れを惜しむ人々の間をすり抜けながら、次第にみじめな気分になっていったことは忘れられない。 あの時、マキタはきっと、夕べの言い訳か、口止めをしに来たのだと思っていた。 ――どっちにしろ、気分が悪いだけだ。 そう思ってその場を逃げ出したのだが、部屋に帰り、一人きりになるとまた涙が溢れてきた。集団で生活している部屋だが、皆、久しぶりに会う親や友人同士で話しこんでいるのか、帰ってくる気配はない。 もちろん退所式にサイトーの両親は来ていなかった。来るわけがない。口減らしのために息子を訓練所に放り込んだのだ。サイトーの方も、ここに入ってから家族と連絡を取ったことはなかった。 それでも、マキタが傍にいるから平気だと思っていたのに。 結局たった一人で最後の日を迎えたのだと思うと、予想外だっただけに辛かった。 誰も帰ってこない寒々とした部屋の中で、サイトーはひとりで声を殺して泣いた。 ――― 写真の裏の文字の筆跡は、サイトーの記憶にあるマキタの字だった。少し右上がりの、ちょっと急いで書いた時の文字。 マキタはきっとあの日、サイトーに写真を渡そうと思って近づいて来たのだ。 最後に見た、何か言いたげな困ったような顔。 サイトーは写真を返し、若き日の自分を見つめる。 『お前を写すのは難しいな』 いつもマキタがそう言っていたのを思い出す。 『すぐ照れて顔を逸らすから』 こっち向けよ、と言って笑うマキタの顔。 この写真の自分が笑っているのは、きっとマキタの笑顔につられたのだ。 今なら、あの時のマキタの気持ちがわかる。 たぶん、マキタは本気でサイトーのことが好きだったのだろう。 だが、もうそれを確かめる術はない。 ――最後の日、なんで教官から逃げ出したんだ? 写真の中の自分に尋ねる。 ――結局、何もされなかったろ? 何年も世話になったのに、どうして逃げた? 今までおれが狙撃手としてやってこれたのは、教官のおかげなのに。 だが、自分でもわかっていた。 あの時のサイトーは、マキタに対する嫌悪感を振り払うことがどうしてもできなかったのだ。 「またそれを見てたのか」 パズの声に、サイトーは写真から顔を上げた。 ベッドルームから出てきたパズは、サイトーの隣に腰をかけ、肩を抱き寄せる。 「懐かしいか?」 小声で囁いて、一緒に写真を覗き込む。 「……言っておくけどな」 サイトーも声を落として、すぐ隣のパズの顔を見た。 「おれは、お前が初めてだったからな。……何のことか、分かってるよな?」 「ああ」 「男とヤるなんて、気持ちが悪いと思ってた。今でもそうだ」 「……」 「だけど、お前だけは別だからな。……だからこれからも、お前以外の男と寝るつもりはない」 「ああ。わかってる」 嬉しそうに囁くと、パズはサイトーの首筋に顔を埋めた。 「なら、いい」 サイトーはそう言うと、テーブルに置いてあった灰皿を引き寄せ、ライターを手に取った。 火を点けると、写真の下にかざす。 「おい、いいのか?」 パズが驚いたように声を上げたが、 「ああ。今更マキタの部屋に戻すわけにもいかないし、おれも写真をアルバムに貼る習慣はないからな」 そう言ってサイトーは写真に火をつけると、灰皿に置いた。 灰皿の中で、苦い思い出とともに写真が燃えていくのを、サイトーはパズと一緒に見つめていた。 「……なあ、サイトー」 不意にパズが呟いた。 「ん?」 「おれも、これからはお前以外の奴とは寝ないからな。もちろん女ともだ」 パズの言葉に、サイトーは吹き出しそうになった。 「嘘つくな」 「何言ってる。おれはほんとに……」 「信用できるか」 「いやいや、ほんとにおれは」 「信じられねぇ。それだけは絶対無理だろ」 「おいサイトー、お前はおれを何だと」 「スケコマシの浮気者」 「おい、ひどいぞそれは……」 ソファで言い合うふたりの前で、灰皿の上の写真が燃え尽きて灰になり、音もなく崩れて散った。 (了) |
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