追憶  B




『サイトー、肘が下がってるぞ!』

 暗闇の中で突然15年前のマキタの声がよみがえり、サイトーはハッと目を覚ました。
 突然の覚醒に心臓が一回跳ね上がり、続いて痛いほど激しい鼓動が胸を打った。
 マキタの死に、サイトーはそれほどショックを受けなかった。意外な最期ではあったが、彼も軍人だったから、サイトーの知らないところで死んでいても特に驚くようなことでもなかったのだ。
 ただ、サイトーが人生の重要な時期を過ごしたあの数年が、日頃電脳の片隅に追いやられていた古い記憶が、あの写真で鮮明に甦ったのは確かだった。

(胸が苦しい)
 サイトーは顔をしかめると、寝返りを打とうとして、自分の胸の上にパズの頭が乗っていることに気づいた。
(……苦しいはずだよな)
 何を考えてるんだこいつは、とパズを押し退けようとした手を途中で止める。
 パズはサイトーの胸を抱き締めるような格好で両手を回し、胸の上に頭を乗せて熟睡していた。上半身が完全には乗っていないだけましだが、それでも義体の男の頭と腕はひどく重い。
 しかしまるでサイトーに縋り付くようにして寝ているパズを邪険に押し退ける気にはなれず、サイトーは諦めて枕に頭を戻した。

 パズがこんな姿勢で寝ることは滅多にない。
 こういう寝方をするのには理由があることを、パズの他の数多くの悪い癖とともにサイトーは知っている。
(前にこの姿勢で寝てたのは……たしか)
 サイトーは薄暗い部屋の天井を眺めながら、ぼんやり記憶の糸を辿った。

 以前、サイトーがバトーのセーフハウスに一晩泊まったことがあった。
 ふたりで飲みに行ったのだが、ちょっと飲みすぎたため帰りにバトーのセーフに寄って休憩しているうちに、うっかり眠り込んでしまったのだ。気が付いたら朝になっていたというだけで、別にやましいことなど何もなかったのだが、確かに滅多にないことではあった。
 次の日、サイトーが特に隠す気もなくパズにそのことを話すと、パズは、
「そうか」
と言っただけで、その時は特に気にしている風はなかった。
 だが、その日の夜、予告なくサイトーのセーフハウスを訪れたパズは、部屋に入るなりサイトーを寝室へ連れ込み、驚いて抵抗する同僚を強引に押し倒した。少々乱暴なセックスの後、その熱も冷めないうちにパズは憮然とした顔で訊いてきたのだ。
『昨日、バトーと……何も、なかったんだよな?』
 一瞬、殴ってやろうかと思った。
『馬鹿か。あるわけねぇだろ』
 サイトーが怒って言い返すと、パズは安堵したような気まずいような顔をして、
『……だよな』
と言った。
 その日の深夜、サイトーが息苦しさに目を覚ますと、パズはサイトーの胸に抱きつくようなこの体勢で胸の上に頭を置いてぐっすり眠っていたのだった。

 サイトーは、パズを起こさないよう、その髪に軽く手を触れた。感触を確かめるように、そっと撫でる。シャワーを浴びてから間がないためか、パズの髪はしっとり湿り気を帯びていた。
 さっき、セックスの後にパズが何を言いたかったのか、サイトーも何となく察している。
(おれがマキタと寝たかとか、今更お前が気にしてどうするんだよ)
 15年前だぞ、と心の中で呟く。

 ――プライドの高い、どうしようもないエゴイストだな。お前は。
    おれに近づく男に嫉妬するのは、そのプライドのせいか?
    死んだ男にまで嫉妬するなんて、ばかばかしいとは思わないか?
    嫉妬するたびにこうして甘えてくるのは、ただのエゴだってわかってるよな?
    自分は女と好き放題遊ぶくせに、おれは自分だけのものにしたいんだろ。

 脳裏に去来する想いを声には出さず語りかけながらパズの髪を撫でるうち、サイトーもいつしか眠り込んでいた。

―――

 サイトーがマキタと初めて会ったのは、メキシコで素子らと出会うよりずっと以前のことだ。

 まだ少年だったサイトーは、さほど裕福ではなかった家庭の事情から、義務教育を終えるとすぐ同じような境遇の少年たちとともに、最低限の衣食住に困らない陸自の一般訓練センターに入所させられた。
 大戦中に創設されたこの一般訓練センターは、サイトーのような少年から三十代の大人まで幅広い年齢層の人間に門戸を開いており、戦地に数多くの兵士を送るため、正規の自衛官とは別に、とにかく戦力になる人間を数多く育てるという目的で創られた施設だった。

 センターの少年訓練コースで何年か基礎的な訓練を受けたサイトーは、当時陸自の狙撃教官をしていたマキタに狙撃手としての素質を見出され、特別に狙撃手養成のコースに移された。
「お前には狙撃のセンスがある。他の誰も持ってないものがお前にはある。自信持てよ」
 年上の男たちに混じって必死に訓練を受けるサイトーに、マキタはいつもそう言って励ましてくれた。
 数年間マキタの指導を受けるうち、サイトーはめきめきと頭角を現し、たちまちセンターでも抜きん出て優秀な訓練生となっていた。マキタはそんなサイトーにいつも目をかけてくれていたのだ。
 正規の自衛官の養成所と違い、寄せ集めの一般訓練センターには粗暴な人間が多く、揉め事が絶えなかったが、マキタはそういった揉め事からも常に守ってくれていた。
 そんな日々が続く中でまだ若いサイトーは、自然とマキタに全面的に信頼を寄せるようになっていったのだった。

 しかし、サイトーとマキタがお互いに抱く「好意」の種類が、実際は全く別種のものであることを知ったのは、サイトーがマキタの傍を離れる前の日のことだった。

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