公安9課狂詩曲 B




 ダイブルームには素子とイシカワの二人だけだった。
 椅子に腰をかけたふたりのうち、素子の方は目を閉じて身動きひとつしない。白い瞼は生気がなく、紅い唇ばかりがふっくりと女らしさを主張してまるで人形のようだ。
 素子を眺めながら、イシカワは今日何度目かのため息をつく。
「……なんでこう、常識外れのやつらばかりなんだ? ここは」
 サイトーといちゃつくためによりにもよって公安ビルのセキュリティをいじるパズ。そのパズに制裁を加えるために緊急時以外は使用厳禁のはずの課員のゴースト侵入錠をあっさり使う素子。
「目的のためには手段を選ばねぇのは任務の時だけにしてくれよ」
 ぶつぶつ言いながらも、イシカワは素子に言いつけられた通りセキュリティカメラ画像をチェックして課員の動向を見張っているのだった。

―――

 トグサは自分のロッカーの前まで来て、やっとパズの様子がおかしいことに気づいて眉をひそめた。
 トグサが室内に入るなり立ち上がったパズは、自分のロッカーで何かをするわけでもなく、じっとトグサを目で追っている。
「……なに? 何か用?」
 タオル一枚の自分の格好を痛いほど意識し、さすがに不審に思ったトグサはおそるおそる尋ねた。ここで一緒に着替えをすることなど珍しくもないし、裸同然の姿をお互い何度も見ている仲ではあるが、じっと見つめられた上に相手がしっかり服を着込んでいるのではなんだか落ち着かない気分になる。
「パズ……?」
「……トグサ、腕を怪我したのか」
 不自然な間が空いたあと、パズがやっと口を開いた。
 右腕を指さされ、ああ、とトグサはほっとする。気遣ってくれていただけなのか。
「さっき、旦那と一緒に外に出てたんだ。軽い火傷だから」
「ちょっと見せてみろ」
 パズは言うと、ゆらりとこちらへ歩を進めた。
「た、大したことないって」
 思わず後ずさるトグサ。
「いいから」
 パズは構わず近寄ると、トグサの右腕をとった。
「パズ?!」
 いつもなら、よっぽどのことがない限りこんなに気安く触れたりはしない。
 トグサははっきり違和感を感じて腕を引こうとしたが、逆に腕を強く引き寄せられてぎょっとした。
「トグサ」
 信じられないほど近くにパズの顔が寄り、甘く囁かれる。と同時にさりげなく左の腰に右手が回された。パズの香水と煙草の香りに鼻腔をくすぐられ、裸の胸に相手の服の感触をざらりと感じてトグサの心臓はどきりと大きく脈打った。
 何が起こっているのかわからない。悪意を持たれていないことは確かだが、はっきり好意を示されたこともない相手に何故か突然迫られている、ような気がする。
(ハッキング?? ウイルス?? 錯乱してるとか??)
 様々な憶測がトグサの脳を去来するが、目の前の相手を突き放すべきか否か、判断に迷う。このような場合の対処など訓練したことはない。
 トグサの右腕が解放され、パズの左手は腕から肩、肩から首筋へと上がってくる。じっと目を覗き込まれたまま、顎に手がかかったところで、トグサはやっと言葉を搾り出した。
「も、もしかして、サイトーと間違えてる? とか……」
 相手の愛しい人の名を出せば正気に戻るかも、という虚しい望みは、
「いいや」
というきっぱりした口調で遮られた。
 パズはうっすらと笑い、トグサの顎を持ち上げてゆっくり顔を近づけた。
 胸が痛いほど動悸が激しくなっていた。

 唇を軽く食むような優しいキスをされる。そのままパズの唇は軽いキスを繰り返しながら首筋へ下りてきて。
 されるままになっていたトグサは、ここで初めて抵抗すべきことにハッと気が付いた。
「よ、よせよ、パズ!」
 叫ぶと、身体に力を込めて相手を押し返そうとした。が、遅すぎた。
 義体率の差は如何ともし難い。背中をロッカーへ押し付けられ左手は万力のような腕で身体ごと抱えられては、自由になるのは右手だけという状況だ。
「や……! やめ!」
 トグサは首を振ってパズの唇から逃れ、相手の胸を右手で叩いて必死で抵抗する。
『だ、旦那! 旦那ぁぁ助けてぇ!!』
 思わずトグサは電通で助けを求めていた。必死で居場所のマーカーを添付し、電通にのせて悲鳴を上げる。
『パズに襲われるぅ〜!!』

 ただ、電通の回線が全開になっていることに、全く気づいていないのだった。
 
―――

 その頃、パズは声にならない声で絶叫していた。
(しっ少佐っ!! 少佐!! いい加減に……!!)
『しっ、いまいいところよ。邪魔しないで』
 憎たらしいほどすました女の声が電脳に響く。
(おれが悪かった! 悪かったから! だからやめろ!!)
 思うようにならない己の身体が悪意のない同僚を無理やり捻じ伏せようとしていることに、パズは激しく動揺していた。まるで力の弱い女性を強姦しているような気分だ。
 これでは傷つくのはトグサだけだ。
(これじゃあおれへの『お仕置き』の意味はないでしょうが! 少佐!)
『そうね。だからわたしはここまで。じゃあね』
(……?)
 不意に身体の自由が戻り、パズははっとなった。
 素子の気配が去り、身体の主導権が自分に戻っている。
 どん、とトグサに胸を突かれたパズは、抱きしめている相手のことを思い出した。
「悪い、トグ……」
 謝って手を離そうとした瞬間、背後でガン!と音がして、トグサがパズのうしろの何かを見つけて目を剥いた。
 その直後。
「おい、パズ。何をやってるんだ」
 後ろで冷ややかな声がして、パズは文字通り飛び上がった。

 その声は聞き慣れたスナイパーのもので、振り向かなくてもその声に恐ろしいほどの怒りが含まれているのが、空気を介してビリビリと伝わってきた。

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