狙撃手、危機一髪   B アズマ+ヤノ




 昨日は本当に失敗だった。

 初めての実戦で、自分のあんな失態を皆にさらけ出すことになるとは。いや、実際には失態はサイトーとパズにしか見られていないが、その後のパズの言動で、全員が知るところとなった。
 だが、自業自得だ。先輩があんな目に遭ったというのに、自分はまるで役に立たなかったのだから。
 ヤノは深々とため息をついた。

「まだ気にしてるな?」
 バーカウンターで隣に座っているアズマが口の端を上げてこちらを見た。
「そりゃあね」
 ヤノは手の中のグラスを揺らした。とろりとした茶色い液体の中で氷がくるりと回る。

 今日の昼間は報告も兼ねてサイトーの見舞いに行ってきたのだが、9課に戻るなりアズマに捕まった。
「なあなあ、今日は飲みに行こうぜ」
 機嫌の良さそうなアズマに首にがっちりと腕を回して絞められ、
「……わかったわかった」
 ヤノはギブアップを示してアズマの逞しい腕を叩きながら誘いを請けた。
 もともと断る気などなかったのだ。今日は酒でも飲んでないとやっていられない気分だった。

 昨日は9課に戻るまでに既に反省が頭の中を渦巻いていたのに、パズに恐ろしい形相で詰め寄られたおかげで、皆の前でしっかり止めを刺されてさらに崖から蹴り落とされた形になった。
 とはいえ、その日のうちに報告書を、しかもサイトーの分もまとめて出さなければならなかったため、ヤノは夜中までかかって仕上げ、その後は任務の疲れもあって、仮眠室で泥のように眠ったのだ。
 ある程度、頭も身体もすっきりした今日、改めて反省と後悔が押し寄せてきたのだった。

「あぁー、やんなるよなあ」
 ヤノはグラスを両手で握りこみ、冷たいそれを額に押し当てる。
「役立たずって思われたよなあ。完全に」
「まあ、初めてってこんなもんじゃねえの」
 満面の笑みを湛え、その大きな手でばんばん背中を叩いてくるアズマに、ヤノは怪訝な顔を向けた。
「何だよその他人事みたいな言い方は。大体、パズのあの顔を至近距離で見てないからそんなこと言えるんだよ」
「あれは怖かったよなあ。オーラで殺されるかと思った」
 口では言いながら、笑みを絶やさないアズマに、ヤノはますます不審そうな顔をする。
「何でそんなご機嫌なんだよ、アズマ」
「いやあ実はさ」
 ヤノのその言葉を待っていたのか、アズマは堰を切ったようにしゃべり始めた。

「トグサがさ、昨日のパズとお前の一件の後、おれに向かって『お前も何かわかんないことやまだ不安に思ってることがあれば、おれたちが居るんだからさ、何でも聞けよ』だってさ」
「……そりゃあ言うだろ。トグサなら」
 ヤノは、また始まった、と眉をしかめた。

 この男のトグサへの執着心と勘違い度は半端ではないのだ。トグサが指一本上げただけでも自分へのアプローチと受け取るような奴なのだから。

「最後まで聞けよ。その後、トグサが『今度、陸自とか海自とかが合同でやる訓練があるんだけどさ、お前も参加しないか? おれはもう参加申し込み出してるんだけど、まだ間に合うと思うからさ』ってよ。聞いたら三日間のサバイバル訓練ていうじゃねえか。三日間トグサと一緒にサバイバルすればさあ、きっと何かあると思わねえか?」
「何かって……男二人で汗臭い訓練して何があるんだよ」

 アズマの言いたいことは薄々わかってはいたが、あまりの馬鹿馬鹿しさに話に乗ってやる気にもなれない。グラスの中身を少しだけ口に含むと、ヤノは片肘をカウンターについて拳に頬を乗せ、アズマに顎をしゃくった。
「お前な。大体、同じ訓練受けるったって。おれもトグサに電通で募集要項を回してもらったけど、あれ、期間が2週間の設定になってただろ? 9課から同時に何人も抜けられないから、その2週間の間にずらして一人ずつ参加することになるんじゃないのか?」
「な……」
 アズマは、ヤノの『おれもトグサに』という台詞と、考えれば至極当然の『単独参加』の事実にダブルショックを受けて絶句した。

 実は、トグサの『おれたちに何でも聞けよ』との気遣いの言葉は、先にヤノにかけられたもので、アズマへは二番目だった。最初の『お前も』の『も』の部分に気づくべきだったが、舞い上がったアズマは、自分にだけ向けられた好意なのだと、露ほども疑っていない。

 さすがにそこまで教えて心を挫いてやる必要も無いので、ヤノは黙ってグラスを揺らしながらアズマのしおれた顔を横目で眺めるだけに留めている。
 浮き沈みの激しい男だ。
 そこがまた憎めないのだが、トグサがアズマを全く相手にしていないのをいつになったら気づくのか。

 ……ウイスキーはやめておけばよかったかな。
 ふと、グラスを口にもっていきながらヤノは思った。
 今日は強い酒が飲みたいと思ってウイスキーをロックで飲んでいたのだが、飲み慣れないこともあって、さっきからあまり減っていない。
 いつだったか、サイトーがロックグラスを手の中で弄びながら飲んでいる姿が、思わず見とれるほど格好良かったことを思い出す。

 ヤノは9課に来た当初は、訓練所時代から面識のあったバトーを完全に崇拝していた。いや、今でも崇拝していて、いまだに思わず『教官』と呼びかけてはしかめっ面を返されている。

 それに比べ、サイトーとは、これまでほとんど言葉も交わしたこともなかったし、ポーカーフェイスのせいもあってどんな人間なのか全く知らなかった。それが最近コンビを組んで仕事をするようになり(コンビを組む、というよりお尻にくっついて、という方が正しいのだが)、特に、頼み込んで見せてもらったサイトーの狙撃練習を間近で目にしてからは、崇拝の対象が一人増えたのだった。それ以来、『サイトー先輩』と呼ぶようになっている。

(先輩はともかく、童顔のおれがウイスキーなんて飲んでても、似合わないよな)
 自嘲気味にため息をつき、グラスの氷を見ていると、狙撃の瞬間の前後の短い時間、サイトーから放たれる澄んだ空気を思い出した。

 狙撃の一瞬にかけるあの集中力と緊張感。
 心臓が脈を打つ一瞬と一瞬の間を待つ、静寂。
 引き金を引いた瞬間に引き絞られる口の端が、命中の手ごたえを感じて緩むまでの数秒。

 突然、ヤノは昨日聞いた銃声が耳元で鳴り響いた気がした。サイトーの左腕が引き千切られる嫌な音が鮮明に蘇って、思わず持っていたグラスを取り落とした。

「っおい!」
 急にびくっと身を震わせたヤノの手から落ちたグラスが、音を立ててスツールの下で粉々になり、アズマはびっくりして声を上げた。
「どうした? 真っ青だぞ」
「……ごめん」
 動揺したように口元を押さえたヤノの手が、細かく震えている。
「気分悪いのか? トイレ行くか?」
「いや……」

 素早く近づいてきてグラスを片付けてくれている店員を呆然と見ていたヤノは、唇を細かく震わせていたかと思うと、不意にカウンターに突っ伏して唸った。
「……畜生」
「どうした?」
「昨日の……あの時のことが、急に」

 ああ、とアズマは察した。
 自分にも覚えがある。昔、まだ戦闘に慣れていなかった頃、訓練中にアズマの目の前の訓練生の銃が暴発して両腕が吹き飛んだのを見たことがあって、その音と映像はしばらくの間思いがけないタイミングで記憶に蘇っては、アズマを苦しめたのだ。
 アズマはバーテンダーに水を注文すると、ヤノの背中をしばらく黙って撫でてやった。

 今は声をかけても何の効果もない。
 恐ろしく鮮明に蘇った記憶が薄れて遠ざかるのを、本人がこうしてうずくまってやりすごしている間、傍にいる人間は黙って見ているしかないのだ。

 しばらく待っていると、爪が白くなるほど自分の腕を掴んでいたヤノの手から、ようやく力が抜けていく。鼻をすすり上げるくぐもった音がして、
「アズマ、みず」
と呟く声が聞こえた。
「ほらよ」
 既に氷が半分溶けた水のグラスを目の前に置いてやると、ヤノはようやく顔を上げてグラスの水を煽った。長時間突っ伏していたせいで額が赤くなっている。

 ごくごくと喉を鳴らして飲んでいるヤノを見て、アズマは、
「……なあ」
と声をかけた。

 空になったグラスをカウンターに置いたヤノが、少し赤い目でこちらを見る。
「例のサバイバル訓練、やっぱりおれも参加するから、お前も申し込めよ」
「トグサとは一緒にはできないけど、いいのか?」
 不思議そうに尋ねてくるヤノを、アズマは軽く睨みつけてやる。
「トグサ目当てに訓練受けるんじゃねえよ」
「いや、さっきまでそうだったじゃないか」
「おれは自分のために受けるんだよ。さらなる飛躍のためっていうの?」
 何言ってんだか、とヤノが呟く。
「本気だって。これからはこういう訓練に積極的に参加してさ、早く9課のお役立ちメンバーになってやろうぜ」
「……」
 ヤノは驚いたようにじっとアズマを見つめていたが、やがてふっと笑みを浮かべると、
「そうだな。そうだよな」
と言って、左手で拳を作ってアズマの肩をぐっと押した。
「なんか今、初めてお前が同僚って感じに見えた」

「は……」
 ヤノの不意の笑顔を見て、アズマの心臓が跳ね上がった。

 あれ? こいつ、こんな可愛かったか?

「は、初めてって……今まではどうだったんだよ」
 動揺を抑えようとするが、アズマの声は不自然にぎこちない。
「さあね」
 ヤノはまた笑顔を浮かべて言った。
 悪戯っぽい表情の明るい茶色の瞳が、店の照明を受けてきらきら光っている。
 ほんのり赤くなった額が、ただでさえ童顔のヤノをさらに子供っぽく見せていた。
 動揺を悟られないよう、アズマはグラスに残った酒をぐいと煽った。

 あぁやばい。おれはお前が初めて同僚以外のものに見えるっての。

 アズマは自分の心の中の天秤が、トグサとヤノを両端に乗せて、ゆらゆらと揺れているのがはっきり見えた。

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