Bad Day C




 ぐっと生唾を飲み込み、こらえようとしたがやはり無理だった。
 サイトーは、再びせり上がってきたものを便器へ吐き出し、激しく咳き込んだ。もう胃の中には吐くものもほとんど残っていない。
 ひりひりと焼け付く喉の痛みと酷い嘔吐感、吐く度に全身に走る悪寒。目の前がぐるぐると回り、立っていられなくなったサイトーは荒い息をつきながらトイレの床に座り込んだ。

 ここは9課のトイレの中である。掃除ロボットがいつも巡回しているため、常に清潔で塵ひとつない公安ビルだが、トイレも例外ではない。広い個室はサイトーが座り込んでもなお余裕がある大きさだが、床にはホコリひとつ落ちていない。
 ぼうっとした頭でピカピカの便座を見つめていると、また喉元へ黄水がせり上がってきた。
(……クソッ……)
 呻いて、目を閉じる。
 ゆうべ、自分のセーフハウスへ戻ると携帯端末を使って何とか本部に報告したのだが、そのまま気を失うように眠り込んでしまった。
 結局、あんなに声を聞きたいと思ったパズにも連絡できていない。
 目が覚めたのは今日の昼前で、そこでようやくシャワーを浴びた。だが、ハマノのクスリはまだサイトーの身体に悪影響を残している。
 ――ヤクザ達から受けた暴力はともかく、クスリを打たれたなどと言ったら、思い出したくもない凌辱の報告までさせられる羽目になるかもしれない。
 そう思ったサイトーは自分のことに関しては報告していない。そのせいで、少佐に出した休暇願は無情にも却下され、携帯端末で送りきれなかった経過報告をするため今日中に本部まで出向かなくてはならないことになった。
 到底出勤できる体調ではなかったが、呼び出しに応じないわけにはいかない。
 ふらふらの身体に鞭打ってセーフハウスを出て、どうにか9課まで辿り着いたのはいいがひどい嘔吐感は一向に収まらず、こうしてトイレからずっと出られないでいるのだった。

 そこへ、
「おい、どうした」
と声が聞こえた。
 パズである。
 同時に、トイレの扉をコンコンとノックする音。
「サイトー、大丈夫か」
 何でもない、と言いたいところだが、痣だらけの蒼ざめた顔で出勤してきたと思ったら30分以上トイレに篭っているのだ。誤魔化すのは無理だろう。
「……ちょっと気分が悪いだけだ」
 それだけ答える。
「ここ、開けろ」
(開けられるか、このザマで)
 サイトーは心の中で呟き、ため息をついた。
「サイトー、聞いてるのか。どうしてずっと自閉モードにしてるんだ」
 黙っていると、パズがなおもノックしてくる。
 ゆうべは狂おしいほど会いたかった男だが、今の自分の状態では顔を見せても心配されるだけだと思うと面倒だった。
「構うな」
 精一杯うんざりした声を出すと、
「……そうか」
と、パズの低い声が聞こえた。
 諦めたか、とサイトーがほっとした瞬間、ミシッと扉が軋み、その直後破壊音と共に扉が外へ開かれた。

―――


「……なに、やってんだお前……」
 壊れた扉に指をめり込ませたパズを見上げ、サイトーが呆れたように呟いた。
「何やってる、はこっちのセリフだ」
 座り込んでいるサイトーを見て眉を寄せたパズは、屈みこんでサイトーの肩に手をかけた。
「……喧嘩でもしたのか? ひどい顔だな。大丈夫か」
「大丈夫とは言え……」
と言いかけたサイトーは、パズを押し退けると再び便器へ覆い被さって吐いた。
「何かあったのか」
「……っ……」
 咳き込みながら、後ろのパズに首を振ってみせる。今は説明する気力もないようだ。
「まさか酔って喧嘩した上の二日酔いってわけじゃ……」
 冗談めかして言いかけたパズは、サイトーの首筋に痣を見つけて後の言葉を呑みこんだ。そっとサイトーの服の襟を引くと、ぐっと眉をしかめて険しい表情になる。
 その間にも、胃にわだかまる不快感と痛みに、サイトーは腹部を押さえて呻いている。
「……ぅ……ん」
 握った拳が悪寒に震え、脂汗が額に浮く。
「サイトー、医務室を呼び出すぞ」
 見かねたパズが言い、サイトーの背中を優しく擦りながら電通を入れる。
「……医務室は、駄目だ……」
「何だって?」
 パズが聞き返すと、サイトーは何か言いたげに頭を上げたが、しばらく躊躇ったあげく結局何も言わずにまた顔を伏せてしまった。










 


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