そしてパズは途方に暮れる




 パズは、必要以上に出力を上げたままになっていたことに気付き、サイトーを抱きしめていた両腕の力を緩めた。
 サイトーの体温は低く、弛緩した身体は重みを増している。
 もうとっくに力を失ったサイトーはパズに体重を預けたまま、ぴくりとも動かない。意識は無く、蒼ざめた瞼は固く閉じられたままだ。
 少し開いた口から、つう、と透明な涎が垂れ、きらりと光りながら糸を引いた。両手がふさがっているパズは、上体を折ってサイトーの顔に自分の顔を近づけ、そっと舌を出して口元の涎を舐め取った。
 鉄錆のような血の匂いがパズの鼻をつく。サイトーは額にも怪我をしていて、そこからも少し血が流れていたが、今はとっくに乾いてこびりついていた。
 動かない相棒を見下ろし、堪えきれずに呟く。
「サイトー、いい加減目を開けろ」

 パズは右膝でサイトーの上体を支え、両手でサイトーの右肩の銃創を押さえていた。血は止まったような気はするが、応急措置が適切だったか、自信はなかった。
 戦闘は終わっていないのか、まだ銃声は続いている。廃墟が立ち並ぶこのエリアでの戦闘は、敵も味方も隠れる場所が多すぎて、なかなか終わりが見えてこないようだ。おまけに、敵がこの一帯に電波妨害をかけており、電通は全く使えず、救援を呼ぶこともできない。
 サイトーが撃たれてからの時間は20分ほどだったが、パズには何時間にも感じられた。



 ツーマンセルを組んでいたサイトーが、走って移動している途中で右肩と脇腹を撃たれた直後、近くにミサイルが着弾して、二人一緒に吹き飛ばされた。パズは幸い大した怪我は負わなかったが、瓦礫の下からサイトーを掘り出した時には、相棒は完全に意識を失っていた。
 ぐったりとなったサイトーを廃墟の陰に引きずって行って横たえ、どうにか安全は確保したパズは、戦闘時に常に身に着けている応急手当キットを出した。サイトーの服も探ってキットを探したが、吹き飛ばされたときに落としたのか、見当たらなかった。

「大丈夫だ、いま手当てしてやるからな、サイトー」
 サイトーの服を破り、止血用コラーゲンシートで右脇腹の銃創を覆う。しかし携帯用のシートは一枚しかなく、パズは右肩の銃創からも血が溢れているのを見て少し躊躇ってから、サイトーの上体をそっと起こした。自分の右膝を肩の下に差し入れて支える。銃弾がサイトーの身体を通り抜けていることを確認すると、銃弾の射入口とその反対側をそれぞれ左手と右手で力を込めて押さえた。
 サイトーの怪我が大したことなければ、応急手当だけして自分は戦闘に戻るつもりだったパズは、これで自分も身動きができなくなり、ため息をついた。
 これではジャミングの圏外に出て助けを呼ぶこともできない。
 少し遠ざかった銃声を聞きながら、パズは途方に暮れた。

 もうすぐ30分が経とうとしている。パズは時々サイトーの呼吸と脈拍を確認しながら、銃声にも耳を傾けて何とか戦況を把握しようと努力していた。
 不意にサイトーが身じろぎした。
「サイトー、気がついたか」
 ほっとしたパズの呼びかけに反応を返す間もなくサイトーの身体が波打ち、喉の奥からこぷっという音が聞こえて、パズははっとして咄嗟にサイトーの身体を横に向けた。途端に、サイトーがわっと吐いた。咄嗟のことでサイトーの身体をうっかり自分の方に向けたパズは、胸にまともに吐瀉物を浴びて一瞬焦ったが、すぐに自分を落ち着かせ、吐いたものの中に血が混じっていないことを確認してほっとする。
「内臓は傷ついてない。よかったな」
 嘔吐の発作は一度だけだった。サイトーの口の横から吐瀉物が溢れているのを見て、パズは眉を寄せた。吐き出せない固形物が気管に入ると窒息する恐れがある。
 パズは躊躇わずサイトーの口に自分の口をあてた。口の中に残った吐瀉物を吸い出し、地面に吐き捨てる。
「指で掻き出してもいいんだが、あいにく手は汚れてる。こんな方法で悪いな」
 呟いてから、再び口をつけ、舌でサイトーの口腔内を浚い、きれいに掃除してやる。
 吐瀉物特有の甘ったるく不快な臭いが鼻をついたが、サイトーの体内から出たものだと思うと全く気にならなかった。
 パズは完全に口腔内がきれいになるまで躊躇いなく何度も口をつけ、吸い上げ、舌で浚った。




(……パズのやつ)
 薄暗い室内で、ダイブ装置に繋がったパズの傍に腕を組んで立っていたサイトーは、モニターを見ながら顔が熱くなるのを感じた。

 緊急時の精神的な耐性を観察するバーチャル訓練で、電通が使えない状況で仲間が怪我をして動けなくなった場合のシュミレーションをしているところだった。制限時間は30分。緊急時の状況判断能力を見るため、繋がった本人にはシュミレーションという自覚はなく、現実と同じ感覚で行動している。

 サイトーは、ぼろぼろの自分の姿より、パズの一挙一動に胸がざわめくのを覚えた。
 もしシュミレーションの相手が自分でなくてもパズは同じことをするだろうか、という考えがふと過ぎり、サイトーはそんな考えが浮かんだことに動揺し、落ち着かない気分になった。室内にいる他の者の気配を必要以上に意識する。

「よし、時間だ」
 素子が告げると、赤服が忙しく手を動かし、装置の唸りが静かになった。モニターを見るため抑えてあった照明が光を取り戻し、ダイブルームに集まっていた課員が我に返ったように一斉に身じろぎした。
「パズ、やるなあ」
 ボーマが感心したように言うと、何故か顔を赤くしたトグサが同意を示して頷く。
「おれ、ぜってー無理」
と、アズマが口を押さえて呟く。こちらは心なしか蒼ざめている。
「うう、相当リアルなんだな」
 次にシュミレーションに入る予定のヤノが、不安げな表情で唸り、
「ごめん、おれアズマを置いて逃げるかも」
と相棒予定の男をちらりと振り返った。
「ひでえ! 手当てくらいしろよ」
 声を上げたアズマは、目の前のヤノの首に腕を巻いて頭を拳でぐりぐり小突く。
「じゃれてんじゃねぇよ! 遊びじゃないんだぞ!」
 イシカワが叱りつけると、新人二人が同時にひゃっと首を竦めた。

 ダイブ装置からコードを抜かれたパズが、ようやく起き上がる。
「気分はどうだ」
 赤服が話しかけると、パズはまだ頭が醒めきらないのかぼうっとした目を向けて、
「……ああ」
と呟くと、顔を顰めて頭を振った。
「シュミレーション一番乗りの感想は?」
 バトーがからかうように声をかける。
「シュミレーション……」
とぼんやり呟いたパズは、そこではっと顔を上げた。傍に立っているサイトーを見上げ、目を瞬く。そしてようやく、いつものパズに戻った。
「まあ、あんまり気分のいいもんじゃねぇな」
と、バトーへ返事をしながら早速服のポケットを探り、タバコを取り出している。
「ここは禁煙だ」
 赤服に注意され、火を点ける前のタバコを咥えたまま立ち上がったパズは、
「報告書は本日中に提出しろ」
と素子に言われ、「了解」と返事をして出口へ向かった。
「次、ヤノ」
 パズの背中で容赦ない素子の指示が飛ぶ。
「は、はい……」
 続いてヤノが渋々ダイブの準備を始めたのを尻目に出て行きかけたパズは、サイトーの隣で立ち止まった。
「?」
 怪訝な表情のサイトーに右手を伸ばすと、パズはサイトーの頬をぺちぺちと軽く叩いた。
「何だよ」
 眉を寄せて見上げてくるサイトーをしばらくじっと見つめていたパズは、ふっと息をついた。

『つくづく、シュミレーションで良かったと思ってな』

 暗号通信でサイトーにだけ伝えてきたパズは、そのままポケットへ両手を突っ込んで、ダイブルームから出て行った。

                                                  


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