猫と髭



 「……あら。あなた誰」
 合鍵を使ってサイトーが扉を開けると同時に、パズの部屋の扉を内側から開けた女は、そう言った。

 綺麗な女だった。部屋の中からは、凝った料理の匂いが漂ってくる。
「パズ、まだ帰ってないわよ」
 女はにこりと微笑む。
 サイトーは黙ってドアノブから手を離し、さっと踵を返してエレベーターの方へ足早に去って行こうとしたが、女の次の言葉に思わず足を止めた。
「あなたなのね、パズの言ってた野良猫って」
 エレベーターまではあと二歩だったが、女の柔らかな声に潜む棘に縫い留められ、サイトーは一瞬動けなくなる。
「彼、時々野良猫が来るから餌をやらなくちゃ、って言って帰っちゃうのよね」
 ふふ、と女は可笑しそうに鼻で笑う。
「マンションなのに、おかしいわよね。てっきり他に女がいるんだと思ってたんだけど、あなただったの。……でもこの部屋、わたしもたまに来てたって、知ってた? ここでいつもパズと……」

 最後まで聞かなかった。
 サイトーはエレベーターに乗り、扉を閉めた。
 女のクスクスという笑い声が、いつまでも耳に残っていた。

―――

「おい、朝だぞ」
 イシカワは自分のベッドに横たわっている男の肩を揺さぶって言った。
「さっさと起きろ」
 ベッドの中の男は、もぞもぞと体勢を直すと、ああ、と呟いて枕に顔を埋めた。
「おい、サイトー」
 そのまま再び寝てしまいそうな男に、イシカワはうんざりしたように声をかける。
「飲みすぎだ、生身のくせに」
「……ほっとけ」
 サイトーは枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で言い返した。
「おれは今日は非番だ。鍵だけ置いて行けよ。おれが閉めて出る」
「馬鹿言え」
 イシカワはそう言うと、坊主頭を平手でばちんと叩く。
「てめえなんぞに鍵なんか預けるかよ」
「なんだよ」
 頭を叩かれたサイトーは、むっとしたように見上げてくる。
「信用してねぇのか」
「……いいから、さっさと起きろ」
 クソガキが、と呟くと、イシカワは生意気な坊主頭をもう一度はたいた。

 サイトーは、時々イシカワの部屋に来て泊まっていく。
 一緒に食事をしたり、飲みに行ったりした帰りに、というわけではない。
 夕方や深夜に、突然電通で所在を確認してきて、ふらりとやってくるのだ。
 断ればあっさりと引き下がる。
 が、イシカワはめったに断ったことがない。
 部屋に来てもサイトーとは何もしない。
 ただ黙って一緒に何か食べるか飲むかして、ベッドで隣合わせに眠るだけだった。
 サイトーがイシカワに何を求めているのかは知らないが、そういうときは大抵誰かとケンカしたりムシャクシャしている時だと、イシカワは薄々気づいていた。

 ゆうべも、そうしてふらりとやってきたサイトーは、既に泥酔していた。
「またパズとでもケンカしたのか。それともバトーか?」
 そうからかうと、ふん、と鼻をならしたサイトーは、ソファに座るなりイシカワの飲みかけのビールに手を伸ばした。
「馬鹿、義体用だ」
 ぺちんと手を叩くと、だらりと腕を下げ、ずるずるとソファに横になってしまった。
「水、飲むか?」
 イシカワが尋ねると、サイトーは首を振った。
 そして、こちらへ手を伸ばした。
 右腕を掴まれ、ぐいと引っ張られたイシカワはバランスを崩してサイトーの横に手をつく。
「……何だ、今日は『そういう用事』なのか?」
 口の端を上げたイシカワがサイトーに顔を近づけ、意地悪く囁くと、
「…………まあ、な」
と、酒臭い返事が返ってきた。
 そして、サイトーは腕を上げると、近づいた顔を引き寄せるようにイシカワの後頭部に手を回す。
「……な、ちょっとだけ、いいか?」
 片手でそっと髭を撫で、右目を細める。
「……そんな風に迫れば、誰もが慰めてくれると思うなよ」
 唇が触れ合うか触れ合わないかのギリギリのところでそう囁くと、イシカワはサイトーの腕を払って起き上がった。
「あいつらと一緒にするな」
「あいつらって?」
 払われた腕をだらんとソファの横に垂れたまま、サイトーがだるそうに問い返す。
 イシカワは、拒否されても特に表情の変わらないサイトーを一瞬見下ろすと、
「パズと、バトー。最近はアズマもか?」
と吐き捨てるように言った。
「盛りのついた猫じゃあるまいし、手近な野郎を掴まえちゃあ手当たり次第に寝るんじゃねえよ」
「……おれは、野良猫らしいからな」
「なんだそりゃ」
「今日、パズの部屋に居た女に言われた。パズがおれをそう呼んでたそうだ」
 イシカワは思わずサイトーの顔を見たが、サイトーは既にソファのクッションの中に顔を埋めていた。そのまま寝てしまうつもりのようだ。
「ほう、愛人同士鉢合わせたわけだ。修羅場か?」
「馬鹿言え」
 イシカワのからかうような言葉に、サイトーは思わずくぐもった笑い声を上げた。
「女が一方的に喋ってただけだ。おれはすぐ帰った」
「で? 他の女の存在にショックを受けたってわけか」
「あのパズだぞ、今更だろ」
 クッションの中で、心底おかしそうに笑っている。
「なら、デリケートなスナイパーは、パズに野良猫と言われて傷ついたってか」
「馬鹿言え……」
 もう一度言い返した後、サイトーの笑い声が止む。
 イシカワはやれやれとため息をつくと、屈みこんで坊主頭の後頭部をざりざりと撫でた。
「本気を、浮気の中に混ぜ込んで誤魔化すんじゃねぇよ。パズがそれに気付くまで待ってんのか?」
「…………」
「合鍵、貰って浮かれてたんだろ」
「クソッ……そうだよ……! おれだけにとか……なんで思ったのか……クソ、パズのやつ、やたらいい女連れ込みやがって……」
 クッションの中から切れ切れに言う声が聞こえてきて、イシカワは思わず微笑した。こんなに素直なサイトーは珍しい。本当に泥酔しているのだ。
「……おれのベッドに来るか?」
 イシカワの言葉に、坊主頭が少し傾けられ、クッションの中から驚いたような右目が見上げてきた。 
「いつも通り添い寝してやるだけだ。勘違いするな」
「…………」
「子守唄でも唄ってやろうか?」
「いらねぇよ、クソジジイ」
 舌打ちしながら、サイトーはソファからふらふらと立ち上がった。

―――

 その日、一日中ダイブルームに籠もっていたイシカワは、椅子の上で背中を伸ばすと、煙草の箱を掴んで屋上へ向かった。
 フェンスに凭れ、夕暮れの空を見つめながら煙を深々と吸い込む。
 サイトーはあれから起きて自分のセーフに帰っただろうか。
 ふと、寝起きの悪いスナイパーを思い出す。
 いや、それはないだろう。結局、鍵は預けずにイシカワが持ってきてしまったから、律儀なスナイパーは施錠せずに出ることができず、じっとイシカワの帰りを待っているのだろう。
 ――主人の帰りを待ってるペットみたいだよな……。
 そう思い、苦笑する。

 そこへ、
『イシカワ』
 不意に暗号通信で呼びかけられ、イシカワは目を瞬いた。
『パズか。どうした』
『うちの猫、あんたの部屋に居るのか』
『……野良じゃなかったのか。お前の、なのか』
『……あの女……』
 舌打ちが聞こえて、パズは忌々しそうに続けた。
『昨日のこと、聞いたのか』
『修羅場のことか?』
『……昨日の夕方、あの女がいきなり押しかけてきたから、面倒臭くて部屋を出てたんだが、その間にサイトーが来たらしい』
『女が合鍵を持ってたんじゃないのか』
『はあ? 行きずりの女に渡すわけないだろうが』
 パズの答えに、イシカワは電通にはのせずにクックッと笑う。
『行きずりの女を自分の部屋に入れるなよ』
『以前、一度寝たことがあるだけなんだが、昨日たまたまマンションの前で会って、強引に入り込まれたんだよ』
『下心があったから入れたんだろ。いい女らしいじゃねぇか』
『まあ……だが性格がちょっとな。二度と会わん。それはそうと、まだ質問に答えてないだろ。サイトーはあんたのトコか?』
『ああ。ゆうべは寝かせてやらなかったからな。まだ寝てるんじゃねぇか』
 煙を吐きながら、イシカワはにやにやしながら言ってやる。
『酔って迫られたら、さすがのおれも断れねぇしなあ』
『あぁそうかよ。冗談はいいから、起きてたらこの場所に来るよう伝えてくれ。おれからは連絡が取れん』
 パズはイシカワのねっとりしたセリフを軽く流すと、アドレスを送ってきた。
『あのセーフは今日引き払ってきた』
『……ちょっとは嫉妬しろ』
 つまらん、とイシカワが鼻を鳴らすと、パズが微かに笑う気配がした。
『サイトーが他に誰と寝てようが、気にしないさ。ま、いずれはやめさせるしな。それにサイトーがあんたとは寝ないのはわかってる』
『そうか?』
 ゆうべ、キスを迫られたことを思い出しながら、イシカワがにやりと笑う。
『……サイトーが、どうしてあんたに懐いてるか知ってるか?』
『懐かれてるとは知らなかったな』
 意外そうに答えたイシカワに、パズは楽しそうに言った。

『あんたの髭が、好きらしいぜ。癒されるってな。ゆうべ酔っ払って、いじられなかったか?』







 えーと・・・パズサイのバトサイのアズサイの、イシサイ(笑) 
 サイトーさん総受け。というか、ただの節操のない人ですね・・・。人肌恋しいので、あちこちで甘えちゃうんだけど、本命はパズだといい。バトーもアズマも、サイトーさんが本気じゃないのはわかっているのです。
 あと、イシカワの髭をナデナデしながら寝るとすんごい癒されるんだよね〜ww とかサイトーさんがパズに嬉しげに話してたらいいと思います。
 女の嘘を見抜けないサイトーさんも、萌える。


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