はじまりはいつも D




 午前中に降っていた雨は昼過ぎには上がり、薄暗いままいつの間にか夕暮れを過ぎて夜になっていた。
 雲が広がる夜空には、星はひとかけらも見えない。それを補うように地上で光る街の明かりが、サイトーの前の結露でうっすらと曇ったガラスの向こうに広がっていた。

 本部ビルの中にあるスポーツジム。
 時々ここを利用しているサイトーは、先程からランニングマシンでひたすら走り続けていた。いつもならある程度汗を流せば気分がすっきりするのだが、今日は走っても走ってももやもやしたものが胸の中にわだかまり続けている。
 今日は朝からずっと気分の晴れない出来事が続いていたが、一日が過ぎていくにつれ、胸のわだかまりは今夜の空の雲のように広がり、サイトーの気分をさらに曇らせた。

 今朝、バトーにあっさり鍵を返した時は、何も感じていないつもりだったのに、何故こんなに苛々するのだろう。自分で終わらせておきながら、バトーと二度と触れ合うことがないということが、本当はショックなのだろうか?
 サイトーは、ガラスの向こうのビルの屋上で赤い光が点滅するのを見つめながら、自分に問いかけた。
 ――どうかしてるな。こんなことで……。

「ピッチを上げすぎですよ」
 不意に後ろから声をかけられ、サイトーはハッとした。
 振り向くと、ジムのスタッフが心配そうにサイトーのマシンの表示を覗き込んでいる。
「無理はしないでくださいね」
 そう言って顔を上げたスタッフは、眉をひそめてサイトーの顔を見つめた。
「……大丈夫ですか?」
 そこでサイトーは、いつの間にか自分が汗だくになりぜいぜいと喘ぐほど疲れていることに初めて気付いた。
「……ああ」
 サイトーが頷いたのを確認すると、スタッフは離れていった。サイトーはそのままスピードを調整して緩めていき、マシンから下りると床に座り込んで呼吸が落ち着くのを待った。
 タオルで汗を拭きながらぼんやり座っていると、再びバトーのことへと考えが向く。

 自分はバトーに未練を感じているわけではない。また、トグサに嫉妬しているわけでもない。
 それは確かだ。
 バトーとは、始めから欲情を吐き出しあうだけの間柄だった。そこはお互い割り切って付き合っていたつもりだった。
 だが、ある時バトーがサイトーに何かを求めていることに気付いてからは、次第に関係が重苦しいものになっていき、それが何かがよくわからなかったが、わからないことがまたサイトーを苛立たせ、さらにバトーとの距離を開けさせた。
 トグサが現れ、判り易く明朗な性格の元刑事にバトーの気持ちの矛先が向かったことに気が付いた時、わずかに胸が痛んだものの、この関係に終わりが見えたことに安堵もした。
 そこで初めてサイトーは、時折誘い合って身体を繋げる関係ではなく、頼れる同僚として見た時の方が、バトーに魅力を感じることにやっと気付いたのだった。
 だから、バトーに未練を感じることはないはずだった。
 では、このわだかまりは一体何だろう。

 その時。
 サイトーの脳裏にもう一人の同僚の顔が不意に浮かんできた。
 ――パズ……。
 同時に再びあの感触が甦ってくる。
 強く、抱きしめられたあの感触。
 そして、タバコと香水の混じった香りが記憶の中で鼻を掠めていく。パズの好きな種類のタバコの匂いと、いつもつけている香水の香り、そしてパズ自身の肌の匂いがブレンドされて初めて漂う、パズ独特の香り。
 サイトーはぞくりとしてタオルを握り締めた。運動によるものではない、別の動悸がサイトーの胸を激しく打つ。

 パズとは、これまで同僚としての付き合いしかしたことがない。飲みに行ったり、ロッカールームでお互いほとんど裸の状態で一緒に着替えをしたりしたこともあるが、そこには常に他に誰か居たものだ。
 それに、大体パズは女好きだと聞いていたのだが。
 ――何故おれなんかに興味を?
 今朝のエレベーターの中で、本当はそう尋ねたかったのだ。だが、口をついて出たのは他の質問だった。
 ――パズはおれと寝てみたいだけなんだろうか。ただちょっと生身の男に興味があるだけで……。
 サイトーは、タオルの生地をぼんやり親指で撫でながら考えた。
 ――まさか、おれに気があるってことはねぇよな……?
 そして、大きくため息をつくと、タオルで顔を覆った。
 ――畜生……苛々の正体はこれか。
 一体パズは自分に何を言いたかったのだろう。
 あそこがエレベーターではなく私室だったら、あのまま押し倒されたのだろうか?
 そして一度身体をあわせればパズは満足して、また元の同僚に戻るつもりなんだろうか?
 ――……どうでもいいじゃねぇか。なのにどうしてこんなに……。
 くぐもった舌打ちをしたサイトーはそのままタオルでぐいぐい顔を拭い、頭を上げると、座り込んだまましばらくガラスの向こうの夜景をじっと見つめていた。

 



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