サイトーの葛藤




 サイトーは、力なく転がっている標的の前に立ち、見下ろしたまま動けないでいた。
 その手には刃物を持っている。
 少佐の命令に従うなら、ある目的のため、これからこいつの体をこの刃物で切り裂かなくてはならない。

 ――何でおれがこんなことをしなければならないんだ?

 ためらっている時間はないのに、どうしても気が進まない。
 既に死んでいる相手だ。これ以上は他の奴に任せればいい。こういったことに慣れた連中はいくらでもいる。
 だが、ここには自分しかいない。今は自分しかやれる者がいないのだ。
 サイトーは深くため息をつくと、刃物を握り直して標的の上に屈み込んだ。

 既に死んだ相手の目がこちらを恨めしそうに睨み上げてくる。
 生臭い匂いがサイトーの鼻をついた。
 意を決して刃を相手の腹に押し当てるが、この場所で合っているのか自信がなくて力が入らない。
 やり直しはきかない上、間違った場所を切ってしまうと全てを台無しにしかねない。
 後で少佐に何を言われるかわからないのだ。
 もちろん、少佐は今もサイトーの背後にある監視カメラ越しに見ているに違いない。
 緊張で強張った指先が痛い。
 相手の開いたままの何かもの言いたげな目が、サイトーを黙って見上げている。

 迷っている暇は無い。早くしなければ。少佐が待っているのだ。


―――


「ちょっと、サイトーはまだできないの?」
 素子はすらりとした足を組むと、9課の共有室のソファーに深々ともたれかかった。
「初めてだからな。もう少し時間をやれよ」
 隣に座ったイシカワが、広げた新聞の陰から素子へ諭すように声をかけた。
「イライラするわねぇ」
 素子は共有室の大きなモニターに写ったサイトーの後ろ姿を見ながら、組んだ足をぶらぶらと振った。
「案外意気地がないのね」
 素子の苛立ちが募ってきたのを感じ、イシカワはやっと新聞から顔を上げた。
「いきなりあんなことを押し付けられたサイトーの身にもなってやれ」
 新聞を畳みながら呆れたように言う。
「大体、急ぐなら自分でやればいいだろうが」
「面倒だから嫌よ。手が汚れるし」
「じゃあ、せめてバトーが出勤してくるまで待て。あいつなら出来るから」
「だって、釣れたばっかりだから早く食べたいのよ。あの魚」

 昨夜、イシカワと素子は連れ立って夜釣りへ出かけ、ふたりで大物を釣り上げて帰ってきたのだ。
 大喜びの素子は、早朝に出勤してきたサイトーをいきなり拉致し、
「命令だ。これをすぐに捌いて刺身にしろ」
と言って、包丁とまな板をオペレーターに準備させた公安ビル内の給湯室に、魚と一緒に放り込んだのだった。
「おい、少佐?!」
 目を丸くしてドアに飛びついたサイトーだが、既に鍵が閉まっていて出られない。
「おいっ! おれは今から新人の射撃訓練の準備を……」
『黙ってわたしの命令を遂行しろ!』
 素子はサイトーの電脳に高飛車に命令を飛ばすと共有室に戻って悠々とソファーに座り、あとはモニターで監視していたのだった。

『悪いな、手を怪我してなけりゃおれがやるんだが』
 電脳越しにイシカワのすまなそうな声が謝ってくる。
 ため息をついたサイトーは包丁をもう一度握り直し、刃先を魚の腹に当て、
「……で、内臓を出すには本当にここでいいんだな?」
と、硬い声で問い返した。
『そうだ。そのまま尻尾の方まで切っていって……』
 イシカワの指示に従って慎重に包丁を動かしていく。
 サイトーも料理が出来ないわけではないが、カレーなどならともかく、こういう繊細な技術は持ち合わせていない。
 今頃、素子は醤油の小皿を前にイライラしているに違いない。
 あの紅い目を想像すると恐ろしく気が焦るが、かといって適当なことをすると後が怖い。

 ――何でおれがこんなことをしなければならないんだ?

 焦りと苛立ちにさいなまれながら、サイトーはまた自問した。
 が、その答えは簡単だ。

 これが素子の命令だからである。
 




 少佐は生魚を食べられるのか?とか、公安ビルに包丁とかまな板とかあるのか?とか、気にしないで読んでくだされば幸いです(笑)。
 あと、題名間違ってましたね。「サイトーの葛藤」じゃなくて「サイトーの割烹」ですね。
 とかね。くだらないですね。すいません。今回は本当にくだらないですm(_ _)m


                                                    → 目次へ戻る