後悔は薔薇の香りとともに



 朝、頭痛と共に目が覚めたアズマは、酒臭い息に自分で顔をしかめながらゆっくりと目を開くと、その瞬間目に飛び込んできた顔に仰天した。

 大体、義体なのに何故さっさと体内プラントを使って酔いを醒まさなかったのかとか、何故夕べはよりにもよってこの部屋に帰ってきてしまったんだとか、いろいろ後悔すべき点はあったのだろうが、目の前にある顔を見た途端、アズマの思考は完全にフリーズしてしまった。

 アズマの持ついくつかのセーフハウスの中で一番汚い、独身男の哀愁漂う腐った1DKの部屋のベッドの上で、アズマの隣で平和にすやすやと眠っているのは同僚のヤノであった。

 アズマは慌てて体内プラントでアルコールを分解しながら、ヤノを起こさないようそっと起き上がった。
 確か、夕べはいつものようにヤノと飲みに行ったのだ。
 義体率の高いアズマは、いつでもアルコールを分解できるのだからもったいないと言って心地よい酔いに身をまかせ、二日酔いぎりぎりまで分解しないのが常だった。一方、ほとんど生身のヤノはそうもいかず、いつ呼び出しがあってもいいようにと飲酒はそこそこに抑える習慣がついている。だから当然、いつも三軒目まで回ったあと頭のしっかりしているヤノがタクシーを拾い、酔っ払ったアズマを車に放り込んで帰らせる、というのがお決まりの流れになっていたのである。
 だが、夕べは飲みすぎたのかもしれない。アズマは一人で乗って帰るはずのタクシーにヤノも引っ張り込み、一緒にここまで連れ込んでしまったようだ。
 情けないことに、タクシー内での記憶はすっぽり抜けて無くなっている。
(ええと……とにかく一緒に部屋に帰って来て、それから冷蔵庫の水を飲んで、ヤノにベッドに寝かされて)
 アズマは途切れ途切れの記憶を必死に手繰り寄せた。

 ――今日は泊まってけよ、なあ!
 アズマをベッドに寝かせるとすぐに帰ろうとしたヤノの腕を掴んで、強引に引っ張って言ったのは憶えている。
 ――今から帰ることねぇだろ。
 ――明日は朝早いんだよ。言っただろ。
 邪険に振り払うことはせず、困ったようにやんわりとアズマの手を外そうとするヤノに苛立ち、
 ――いいじゃん、うちから出勤すれば。シャワーも貸してやるからさ。
と、酔って手加減のきかないまま強引に自分の方へ引き倒すと、ヤノがあっさりこちらへ倒れこんできた。
 義体化率が違うのだから当然である。
 倒れ込んできたヤノはアズマの身体の両脇に両手を突いたまま、
 ――アズマ……
と、何かを言いかけた。
 何かを言いかけてヤノの口が動いたところまでは憶えているのだが。

(うわあああ! 思い出せねぇ! その後がぜんっぜん思い出せねぇ!)
 アズマは心の中で絶叫して頭を掻き毟った。
 途切れた記憶の糸を空しく手繰りながら、ヤノを見下ろしてため息を吐く。
(大体、手ぇ出してないよな? 俺……)
 一応、ヤノの着衣に乱れはないようだ。いや、よく見るとシャツの裾が乱れているのと、ズボンのベルトが外れてジッパーが少し開いている。が、ベルトは寝るときに緩め、シャツは寝乱れたものと見えなくもない。
 そういえばアズマのベルトも外れて同じような状態になっている。
 だが、一度脱いで再度着たのならアズマはともかくヤノはジッパーくらいきちんと閉めたはずだ。それに、何かあったならアズマならさすがに匂いで分かる。が、これといって『アレの痕跡』と言える匂いは残っていない。
(何もなかったのか……)
 腕に飛び込んできた据え膳に手をつけなかった自分を呪いつつ、ちょっとホッとした。

(それにしても)
 アズマはまだ眠っているヤノの顔を見下ろすと、しげしげと眺めた。
(可愛い顔して寝やがって……)
 ツンツン立った短い髪の下に広がる額の真っ直ぐな眉。きらきら光る大きな茶色い瞳が隠れている瞼。ふさふさと長い睫毛。少し開いたふっくりとあどけない唇。見ているとむらむらと邪な欲求が湧いてくる。
 ごくりと息を呑んだアズマは、そっと屈み込み、起こさないよう細心の注意を払いながら顔を寄せていった。
(ちょっとキスするくらい、いいよな……?)

 近づくと、昨日飲み屋でタバコの煙にまみれたのにも関わらず、ヤノの肌からはまだ微かに9課シャワールーム備え付けの石鹸の香りが嗅ぎ取れた。いつだったか、『生身のヤツはこれを使え! 使わんと罰則を科す!』と言って素子が独断で備え付けた薔薇の石鹸の香りである。ご丁寧にピンクの薔薇の形をしており、使ったが最後、風呂上りに全身からフローラルな芳香を放ってしまう強烈な石鹸のため、トグサやサイトーなどはあからさまに嫌そうな顔をしていたが、そういうことには頓着しないヤノだけは『いい匂いするよな』などと言ってあまり気にせず使っている。
 荒事の後、男だらけのロッカルームに血や硝煙の臭気と入れ替わりに薔薇の香りが立ち込めるたび、皆微妙な顔をして素子の狙いが一体何なのか考えをめぐらせるのだった。

(……ま、今日は少佐にちょっと、感謝) 
 心の中で素子に手を合わせながら、鼻孔をいっぱいに膨らませて香りを吸い込む。薔薇の香りと共に、ヤノの体臭が肺に流れ込んでくるようで、アズマは邪な欲求がますます強まるのを感じた。
 ふっくらとした下唇と上唇を順番に軽く食んでから、そっとキスをする。柔らかなその感触に柄にもなく胸の高鳴りを覚えながら、唇を押し当てたまま少し開いたその隙間からそっと舌を滑り込ませた。
 舌はすぐに前歯に行き当たったが、なぜか歯列は素直に開き、口腔へ潜り込むことができた。
「……ん……」
 何かに口の中に侵入され、さすがに意識が浮上してきたのかヤノが眉をしかめて身じろぎした。が、覚醒には至らない。
 一瞬ぎくりとしたアズマはヤノのその様子に胸を撫で下ろすと、そのままそっと口の中を探り続ける。
 まだ半分眠った状態のヤノは、無意識なのか素直に口を開くと、侵入してきた舌へ自分の舌を絡めてきた。
(起きるなよ……)
 念じながらも抑えきれずに夢中で深いキスを続けていると、やがてヤノが、
「んん……」
と小さくため息をつき、唇の間から、
「アズ……」
と微かに呟くのが聞こえた。
 その瞬間、アズマは頭が真っ白になり、忍耐の限界が一瞬で訪れてしまった。

「ヤノ……!」
と自分もため息と共に吐き出すように言うと、ヤノの身体に覆い被さるように身を乗り出した。
 左手で身体を支え、深く口付けたまま右手でヤノのシャツの裾を捲り上げる。服の下に手を差し込み、脇腹へ触れるとヤノの体温を手のひらに直に感じる。肌をまさぐるたびに、
「あぁ……」
と唇の間から漏れるヤノのため息にアズマはうっとりして目を閉じた。

 が、その瞬間。
「アズマ?」
 唇が離れたかと思うと、ヤノのはっきり覚醒した声が耳を打ってアズマの理性を一気に引き戻した。
 いつのまにか茶色の瞳が大きく見開かれている。
 驚いたように少し首を持ち上げたヤノは、間近に迫るアズマの顔をじっと見つめ、何を言おうか考えるように二、三度目を瞬いてから、
「……いま、何時?」
と、場違いなことを呟いた。
「……6時、半かな」
 アズマは完全に相手の身体に跨っているこの体勢に何の言い訳も思いつかず、とりあえず質問に答える。
 ところが、ヤノは、
「6時半?!」
といきなり叫ぶと、がばっと跳ね起きてアズマの下から抜け出した。
「やばい! 7時にはダイブルームに座ってないとイシカワに殺される!」
 ぶるっと身体を震わせると、慌てて身づくろいをしながらアズマを振り返り、
「悪い! 夕べの続きはまた今度な!」
と言い捨てると、脱兎のごとく玄関から飛び出して行ってしまった。

 残されたアズマはベッドの上で呆然と座り込む。
「……夕べの、続き?」
 乱れたシャツの裾、外れたベルト、途中まで開いたジッパー。
「夕べは、まさか、途中まで……」
 ぷっつりと無い記憶の先は。まさか。
「まさか、ヤノも同意の上で途中までやりかけて……俺、寝ちゃった?」
 一気に押し寄せる後悔。
 義体なのに、完全なる据え膳を目の前にして何故さっさと酔いを醒ましてやることをやってしまわなかったのか。
 そこでアズマはハッとなって顔を上げた。
「あいつ……さっき、どこから目が醒めてたんだ……?」

―――
 
 それから出勤までの一時間。
「ああ〜〜ヤノが何考えてるか全然わからねぇ! てか、夕べの俺の馬鹿っ! 馬鹿っ!」
 アズマは微かに薔薇の香りの残るベッドの上で、後悔と自責に枕を抱えて身を捩って悶え続けたのだった。



 初めてまともなアズヤノ。いつもながらヤノ君のビジュアルは当サイト用に美化されております(^^;)
 9課備え付けの薔薇の石鹸は後藤さんとお話しているうちに出来上がったネタ。少佐の命令は絶対です(笑)
 あくまでヤノ君に振り回されるアズマ。でももう一押しな感じにも・・・? どうでしょうか。


                                                    → 目次へ戻る