誘惑



 帰り際、共有室を覗くと半分照明を落とした室内のソファに独り座るスナイパーの姿があった。
 イシカワは首を傾げる。サイトーは数時間前にバトーと「飲みに行く」と言って二人で帰って行くのを見たはずだ。
 今夜のお相手は元レンジャーか、と電脳の隅っこでちらりと思ったのを憶えている。
 飲みに行ったあと、バトーのセーフハウスに行かずに戻ってきたのだろうか。

 サイトーは特定の相手を持たない。外で女を買ったり引っ掛けたりもしているのだろうが、時折同僚に誘われて相手のセーフハウスに泊まることもあるようだ。
 イシカワがそのことに気付いたのは、いつだったかの朝、パズがサイトーのドッグタグを投げて渡すのを見たときだ。
「忘れ物だ」
「ああ」
 イシカワが見ているというのに顔色ひとつ変えず受け取ったサイトーはそのままドッグタグを首にかけたが、その首筋にぽつんと赤い痕がついているのがちらりと見えたのだ。
 パズとだけそういう関係なのかと思って見ていると、どうやらバトーとも関係を持っているらしい。
 普段、飄々とした態度とポーカーフェイスを崩すことのないスナイパーの意外な一面だった。

 ソファの後ろに立つと、サイトーは物憂げに顔を上げてイシカワを見上げた。うたたねをしていたらしい。
「……まだ、いたのか」
「なんでこんなとこで寝てやがるんだ。バトーと飲みに行ったんじゃねえのか」
「行ったよ。行って……帰ってきた」
 ソファの背もたれに肘を載せ、眠そうにこめかみの辺りを揉みながら返事をするスナイパーの声には何の感情もない。
「もう遅いし……ここの仮眠室で寝ようと思ってとりあえずここに座っただけのつもりが寝ちまった」
「帰るんなら自分ちに帰りゃいいじゃねえか」
 イシカワが呆れて言うと、サイトーは欠伸をしながら言った。
「このビルのすぐそばの居酒屋で飲んでたんだよ。一番近いセーフは最近使ってないから埃だらけで帰る気になれねぇし」
「一番近いのに使ってないのかよ」
「パズのセーフのが広くて近いんだよ。最近合鍵を持たされてるから……」
 ぼんやりと言いかけたサイトーが、不意に口をつぐんだ。
 明らかに言うつもりのないことまで口にしてしまったのだろう。低く舌打ちをするのが聞こえたかと思うと、サイトーはソファから立ち上がってイシカワを振り返った。
「ご老体ももう帰るところなんだろ」
「ああ。おれはトシだから自分ちで寝る方が楽なんだ」
「イシカワ、今夜あんたんちに泊まっていいか?」
「……何だと?」
 何の前置きもない、不意の言葉。冗談かと思ってイシカワは相手の右目を見返したが、その目からは何の感情も読み取れない。
 泊まりたい、ということはやはりそういうことなのだろう。イシカワはサイトーとこれまでそういう関係になったことはなかったのだが、今日はどういう気分の動きなのか、どうやらサイトーに誘われているらしい。

 これまでそういう関係になかったからといって、イシカワがサイトーを相手にすることを考えたこともないわけではない。同性を対象にすることに特に抵抗はなかったし、何といっても気心が知れた同志なのだ。
 ――それにしても……いつの間にか妙な色気をつけやがって。
 スナイパーが仲間になった10年前、バトーと素子以外の仲間を皆殺しにされその実力を見せ付けられたとはいえ、初めて顔を見た時はこんな生身の小僧が役に立つのかと思ったものだ。
 イシカワは目の前に立って自分を誘惑している男をじっと見つめたが、薄暗い部屋なのにその右目の光は強く、見つめていると惹きこまれるようだった。
 だが、イシカワはとりあえず冗談だと受け取ったことにして、当たりさわりのない言葉を選んで言った。
「添い寝してもらわなきゃ眠れねぇ歳じゃねぇだろ」
「……」
 右目は黙ってこちらを探っている。
 ――泊まってもいいのか、ダメなのか? どっちなんだ?
「……酔ってんのか?」
「いや」
「パズの『広くて近い』セーフに泊めてもらやあいいじゃねえか」
「今夜は女が来てる」
「あー……なるほど」
「……イシカワ?」
 焦れたようなスナイパーの声がイシカワの疲れた頭に忍び込んでくる。
 ――どうなんだ? 抱きたくないのか? おれを。
 くらくらして、イシカワはためいきをついた。
「……何でバトーのところに泊まらなかったんだ」
「今日は気分じゃないみたいだったからな」
「断られたのか」
「誘わなかった」
「……おれはあいつの代わりか?」
「嫌ならいい」
 無表情の右目の光はイシカワの問いかけにも揺れることはない。
 サイトーの開いた襟元からはドッグタグがのぞき、静かな呼吸とともに胸が上下すると、チェーンが室内の間接照明に反射してちらちら光っているのが見えた。筋肉のついた胸のなめらかな肌。その呼気には微かにアルコールの香りが混じっていて。

 イシカワはくらくらする頭をひとつ振ると、無表情の右目へ答えを返すために息を吸った。

  


 答えは、ふたつにひとつ。
 イシカワさんはスナイパーの誘惑に抗えるか?
                                                 


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