出発前夜




 深夜。
 おれはセーフハウスのソファの上に座り、殴られた左頬の痛みに黙って耐えている。
 殴った馬鹿はおれの前に両膝をつき、おれの膝の間に顔を埋めてうずくまっている。
 何かひとこと言ってやりたいが、まだ頭がぐらぐらするものだからおれはただ黙ってこうして馬鹿の頭を見つめているだけだ。

 アナログ時計の秒針が、さくさくと音をたてて時を刻んでいる。
 少し大きめの古めかしい置時計。いつだったか一緒に行った骨董市で見つけて、思わず二人で衝動買いしたものだ。
 こいつと二人で居るときなど会話が途切れることなどしょっちゅうだったから、そんな時はこの時計が刻むさくさくという音を二人で黙って聴いたりした。

 時計は午前2時を指している。
 明日はアフリカへ出発するというのに、この馬鹿のおかげでまだ寝ることにならない。

――

 なぜ殴られたかは解っている。
 いつ戻れるともわからない任務で旅立つというのに、おれは夕べ結局こいつに何も言わずここへ帰ってきてしまったのだ。
 ただでさえ最近ろくに口をきいていない。
 おれが出発前の残務処理で忙しかったからというのもあるが、こいつを意識的に避けていたせいでもある。
 それでも、おれがアフリカ行きを勝手に決めた時も、黙って義体を増設した時も、こいつは何も言わなかった。

 なのに夕べ、こいつに声もかけずに帰ってきたらなぜかひどく腹を立てられた。
 明日になれば、出発まで二人きりになる機会はもうない。
 こいつのことだから、今夜は二人きりになり、おれを抱きしめて、寂しくなるなとか待ってるからなとか何とか気障ったらしいことを言って、キスのひとつもしたり(おれが許せばついでに抱いたり)するつもりだったのだろう。

 だから今こいつは、強盗のように突然他人のセーフに押し入ってきて、通り魔のように前触れもなく殴りつけてきたりしたのだ。
 怒りのあまり自分が義体ということもおれが生身ということも忘れ、利き腕で思い切り殴ってくれたものだ。おかげで一瞬気が遠くなり、気が付いたらソファに座り込んでいた。
 だが、こいつの怒りはそこで萎んで途切れたのだろう。
 スマン、と呟いたきりこうしてこいつはおれの膝の間に顔を埋めて後悔に沈んでいる。

 馬鹿だ。こいつは。
 そしてたぶん、おれも。

――

 身体をいくら義体化しても、脳を削っていくら電脳化しても、心までは義体化できない。
 おれはきっとアフリカでこの馬鹿を思い出さずにはいられないだろう。
 この馬鹿も新浜でおれを思い続けるだろう。
 けれど、そればっかりはおれにもこいつにもどうしようもないのだ。

 どうしたらいいのかわからない。
 この気持ちを言葉に、行動に、表したところで苦しくなるばかりだ。
 いっそ、この男の顔を見ず、声を聞かずに過ごしたら少しは楽になるだろうか。
 そう思っていたこの数週間。
 なのに。
 
 夕べ、自分がなぜこのセーフへ戻ったのか解っている。
 こいつの知らないセーフがまだいくつかあるというのに、夕べに限って一番頻繁にこいつが出入りしていたこのセーフに戻ってきてしまった。もちろんこいつが暗証番号もキーも持っているとわかった上だ。

 おれもこいつに会いたかったのだろうか。
 膝の間にうずくまったまま動かない後頭部を見下ろしながらため息をつく。

――

 殴られた頬はまだずきずきと痛む。
 めまいはようやく治まったようだ。
 おれは静かに右手を上げて、膝の上の頭に手を載せて呟く。
「……パズ」
 いつまでこうしてるつもりなんだ。
 いい加減重いから離れろよ。
 キスくらいならしてもいいからそろそろ顔を上げたらどうだ。
 それともおれからキスしてやろうか?

 だが、どの言葉も声にはならない。
 おれは黙ってパズの頭を撫でる。

 時計の秒針がいつものように、黙り込んだおれたちの間でさくさくと音をたてて時を刻み続けた。
  


 2ndGIG〜SSSの狭間で。                                                  


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