らしくない




 公安の人間として働いていると、軍にいた頃と違ってふとした時につまらない人間関係のしがらみを垣間見ることがある。
 総理官邸などから戻ってきた時の荒巻の眉間のしわに、課長に付き添った素子の引き結んだ唇に、それはしばしば見出すことができる。

 サイトーが素子の部下であることで満足しているのは、そういったつまらぬことに悩まなくていいからでもあった。
 自分は狙撃手として、素子の武器の一部でいられればそれでいい。命令があればその対象を撃つ。それ以上のことを考えたくもなかったし、考える必要もないと思っている。
 サイトーはしがらみの多い人間関係が苦手だった。人との付き合いは単純なほどいい。

 だから、これまで女性との付き合いもそこそこ適当に流してきたし、そのせいで長続きしないことも多かったが、サイトーは別に気にしていなかった。どうせ自分は一生結婚することはないと覚悟していたし、トグサのように子供を持つことなど想像したこともなかったからだ。
 それなのに。

 最近、あの男に、サイトーはそのスタンスを崩されそうになっていた。




 サイトーは打ちあがった報告書をまとめ、きちんとファイルに挟むとデスクから立ち上がった。今日はこれを荒巻に回せば上がりだ。時計を見ると、既に午後11時を回っていた。

「サイトー、終わった?」
 後ろから疲れた声がかけられる。
 振り向くと、書類に埋もれてパソコンのモニターに目をしょぼつかせた所帯持ちがうなり声を上げていた。
「日付が変わるまでにおれも帰りたかったよ。もう無理だけど」
「証拠整理か、大変だな」
「アズマが手伝わないんだよ。どうせできないけどな、あいつ」

 トグサの今の相棒は、どうやらさっさと帰ってしまったらしい。
 そういえば数時間前、おれは肉体労働専門だから、などと都合のよいことを言いながらひらひらと手を振って部屋を出る憎たらしい新人の後ろ姿を見た気がする。

「できるものなら手伝ってやりたいが、トグサのはおれのとまったく別の案件だからな」
 サイトーはトグサの手元の書類を覗き込みながら言った。
 手伝うにしても事件の情報がまったく無いに等しい状態では何もできない。トグサから一通り説明をしてもらわなければ下手に手を出せないのだが、トグサにしてもサイトー相手にそんな手間をかけるくらいならその間にさっさと仕事を済ませたいだろう。

 案の定、
「いや、いいよ。ありがとう。気持ちだけで十分」
と、疲れた笑みを返された。
「そうか。頑張れよ」
 サイトーは声をかけると、トグサを一人残して部屋を出た。

 薄暗い課長室に入りデスクの所定の位置へファイルを置くと、サイトーはふたたび廊下へ出た。ロッカールームへ行き、荷物を取って地下駐車場へ向かう。
 今日は残っていたのは自分とトグサだけのようだ。オペレーターとすらすれ違わない公安ビルは、閑散として寒々しいだけの建物だ。

 車へ乗り込むと、サイトーはため息をついた。
 肉体を酷使する任務も疲れるが、書類仕事はまた別種の疲労を生む。
 冷たいシートに身を沈めると気持ち良く、油断すると眠り込んでしまいそうなほど疲れていた。

 しばらくして、何とか気持ちの良いシートから背中を引き剥がして車のエンジンをかけようとした時、駐車場の入り口から、タイヤの軋む音が聞こえてきた。
 こんな時間に、外から帰ってくる者がいるのか?
 音のする方へ目をやり、ああ、と納得した。

 黄色のランチア。
 バトーがトグサの遅い帰りを気にして様子を見にきたのだ。
(まめなヤツ)
 呆れて苦笑する。が、
「……」
 ふとある男を思い出し、サイトーは動きを止めて再びシートに身を沈め、ぼんやり考え込んだ。

 その時、
『サイトー』
 不意に電通が入った。

 たった今思い出していた男からである。
 サイトーは一瞬ぎくりとしてシートから背を浮かせた。
『パズか。何だ』
『仕事は終わったか』
『ああ、いま終わって帰るところだ』
『……疲れてるみたいだな』
『何の用だ。さっさと用件を言え』

 仕事以外の電通では、パズはすぐに用件を言わない。普段は気にならないが、そういうパズの癖はサイトーを時折無性に苛立たせる。

『例の店にいる。これから来るか』
『今日はご指摘の通り疲れてる。悪いが付き合えない』
 大体今何時だと思ってやがる、とも思ったが口にはしなかった。

『そうか』
 パズの声の調子は変わらない。
『じゃあ帰ってゆっくり休めよ。また明日な』
『……ああ、また明日』

 あっさり切れた電通に、サイトーはまた苛立ちが込み上げてくるのを感じた。
 パズが一人で飲むだけのために店の椅子を温めていたわけではないことは分かりきっている。 サイトーの仕事が上がるのを待っていたのだ。
 それなのに、サイトーに断られてもあっさりそれを受け入れ、何の文句も言わない。当然、約束などしていないのだから文句を言われる筋合いでもないのだが。

 ……少しは食い下がるくらいしたらどうなんだ。

 自分で断っておきながら、サイトーは苛立ちを抑え切れなかった。
(……疲れてるな。やっぱり)
 意識的に体の力を抜きながら、ゆっくりとため息をついた。

 自分でもらしくないと思い、疲れと混じって気分が悪くなる。
 だが、気分が悪いのにはもうひとつ原因があった。
(くだらねぇ)
 頭をひとつ振り、苛立ちとともに込み上げて来ようとする感情を振り払おうとしたが、無理だった。

「……クソッ」

 ハンドルを拳で叩き、しばらく悩んでから、舌打ちをすると電通の回線を開いた。
『パズ。これから行く。まだ居るだろ?』

『……サイトー?』
 少し驚いたようなパズの声を聞くと、サイトーの抑えきれない感情が溢れ出し、思わず言葉になってこぼれ落ちた。

『……会いたい』

 本当にらしくないと思うが、どうしようもない。

『あぁ……おれも会いたい』
 パズの返事に、サイトーは緩くため息をついた。

 このしがらみだけは、本当にどうしようもないのだ。


                                                 

                                                    → 目次へ戻る