小春日和



 真冬のこの時期にしては暖かいある日の午後のことだった。

 天気もよく、仕事も少ないとなれば公安9課のメンバーが自然と集まるのが屋上である。
 屋上には9課の喫煙者たちが勝手に憩いの場としている場所がある。誰が置いたのかフェンスの真ん中に括り付けられた空き缶には常に吸殻がいくつか捨てられており、誰かが時々きちんと吸殻を捨ててくれている。その「誰か」というのはおそらくがさつな男たちに屋上を汚されるのを見かねたオペレーターなのだろうが、当のがさつな男たちはそのことを気にすることなく今日も快適に屋上での喫煙を楽しんでいるのだった。

「サイトー、いつも思うんだがな」
 ぽかぽかと暖かい日差しを背中に浴びながら、フェンスに両腕を置いて煙草を吸っていたイシカワが、隣に立って同じく煙草を煙に換えている狙撃手に話しかけた。
「寒くないのか、それ」
 指さした先には、いつものように肌蹴られたシャツが微風にそよいでいる。
「べつに。今日は寒くないだろ」
 答えたサイトーはイシカワと反対を向いてフェンスに背中をもたせかけ、気持ち良さそうに胸に日差しを浴びている。
「もうひとつかふたつ、ボタンを閉めたらどうだ」
「いい」
 にべもなく断るスナイパー。
「見てる方が寒いんだよ」
「そうか? それはすまんな」
 言いながらも、特にすまなそうな様子はないサイトーに、イシカワは苦笑して缶へ灰を落とした。

 イシカワは、別に急にサイトーのファッションが気になったわけではない。
 気になったのは胸元の赤い痕だ。
 イシカワは、サイトーに気づかれないよう、もう一度胸元にそっと目をやった。
 鎖骨の少し下、シャツに隠れるか隠れないかぎりぎりの際どいところに見える、あの赤い痕は明らかにキスマークである。本人では鏡でも見ない限り気付かない、微妙な位置だ。たぶんボタンをもうひとつでも留めれば少し襟元も閉じて隠れるだろう。
(……パズのやつ、何考えてやがる)
 下手したら素子にだって見られる危険があるのだ。特に今日は暇そうな素子が、これを見つけて怪しく微笑む様を思い描き、イシカワはぞくりと寒気がした。
『キスマーク、折角付いてるんだからひとつもふたつも一緒よねぇ?』
 素子に押し倒されてボタンを引き千切られ、悲鳴を上げるサイトーの姿が脳裏を過ぎる。
 退屈している素子ほどやっかいなものはないのだ。
「いいから、ボタン留めろ」
 悪戯好きの素子の高笑いが聞こえた気がして、イシカワは強引にサイトーの服に手を掛けた。
「おい、何しやがる!」
「お前のためだ!」
 ボタンを留めようとするイシカワの手と、抵抗するサイトーの手がもみ合いになる。
(クソッ、何でおれがこんなに気を揉まないといけねぇんだ?)

 その時、屋上の入り口が開きバトーとトグサがこちらへ歩いてきたのを、もみ合うふたりは一瞬気づくのが遅れた。
「ご老体、何やってんだこんなところで」
 バトーから呆れたように声をかけられ、イシカワは両手をサイトーのシャツにかけたまま固まった。
「パズに言いつけるぞ?」
 トグサまで心配そうに眉をひそめている。
「何でもねぇよ」
 慌ててサイトーから離れたイシカワは、煙草を取り出しながらため息をついた。
「大丈夫か? サイトー」
「べつに」
 バトーにポーカーフェイスで答えたサイトーは乱れた服を整え、イシカワに留められたボタンをご丁寧に外してから、何事もなかったかのように煙草を咥えた。

「今日はヒマだよなー」
 気を取り直したトグサはサイトーの隣のフェンスに凭れ、持ってきたコーヒーの缶を開けながら言った。
「お前は煙草じゃないのか」
 サイトーが尋ねると、
「ああ。前は吸ってたんだけど、奥さんが妊娠したときにやめたんだよな」
と、缶に口をつけて美味そうに飲み始めた。
「煙草を吸わないのにわざわざ屋上に来たのか?」
 イシカワが意地悪く尋ねる。 
「来ちゃいけないのかよ。いい天気だし、いいだろ別に」
 一瞬バトーへ目をやったトグサが不機嫌に答える。
 聞かなくてもわかっているのだ。バトーが屋上へ行けば、トグサは当然のようについてくる。
 イシカワの隣に立っているバトーは我関せずという顔で煙草を咥えている。
『トグサは子犬みたいで可愛いよなあ? バトーよ』
 イシカワが暗号通信でバトーへからかう様に言う。
『どこへ行くにも付いてくるもんなあ』
『イシカワ』
 表情を変えずこちらを見もしないまま、バトーが通信を返してきた。
『おれたちのことより、お前さっき何してた?』
『……何でもねぇよ』
『じゃああのキスマークは何だ』
 目ざといバトーは、既にサイトーの胸元についた痕に気づいていたらしい。
『あれはおれじゃねぇ。パズに決まってるだろうが』
『本当か?』
『馬鹿な想像してんじゃねぇよ。ほんとに何もしてない』
『あ、そ』
 興味があるのかないのか、それだけ言ったバトーはぷかりと煙を吐いてそれ以上何も言わなかった。

 今日は本当にいい天気だ。
 イシカワはさっきのやりとりも忘れ、少し霞んだ新浜を見つめながらバトーと黙って煙草をふかした。
 隣ではサイトーとトグサが和やかに世間話をしている。
 イシカワは知らず知らずのうちに再びサイトーへ目が吸い寄せられていた。
 サイトーの胸のキスマークは微風にそよぐシャツの間から相変わらず見え隠れしているが、トグサからは見えない位置なので、会話は何事もなく続いているようだ。
 日差しを浴びた胸でドッグタグが光っている。話の途中で笑うたび、タグがそのなめらかな肌の上で揺れ、イシカワはごくりと息を呑んだ。
 その温められた胸に、そのキスマークの上に自分の唇を置いたらサイトーはどんな顔をするだろう。温かそうなあの肌はどんな感触をこの唇に返してくるのか……

『オジイ、よだれが出てるぞ』
 バトーの声に妄想を中断され、イシカワははっとなって振り向いた。
『やっぱりあれ、テメェがつけたんじゃねぇか』
 そう言ったバトーはこちらを向いてはいないが、その義眼の端でイシカワの視線を追っていたのだろう。
『覗き見してんじゃねぇよ』
 イシカワが苦々しく言い返すと、
『どっちが』
と、バトーは街を見下ろしたまま口角を上げた。
『たまには妄想させろ』
『いつもだろ』
『独り身のオジイは寂しいんだよ』
『だからって他人のモンに手ぇ出すなよ』
『おいおい、テメェにだけは言われたくねぇな』
 イシカワが苦笑しながら言い返すと、バトーもさすがに噴き出して、その後しばらくふたりで肩を震わせて笑い続けた。

 その一時間後。
 イシカワは、共有室でひどく不機嫌な顔で新聞を読むサイトーを見つけた。
 見ると、黒のタートルネックに着替えている。
 その向かい側のソファには右の頬を押さえてうずくまっているパズ。
 どうやら左で殴られたらしい。
(やれやれ)
 イシカワは頭をぼりぼりと掻きながらダイブルームに戻っていった。



 このヒマさ加減はありえない。こんなので新浜の治安が守れるのか心配になる公安9課の一日。
 勝手にぎりぎりプレイを楽しんだパズは怒ったサイトーさんにしばらくシカト攻撃をくらってヘコむといい。


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