あなたの顔が見たいの




 急に、隣にいた男の気配が離れて行き、イシカワは意識をモニターから引き離してそちらを振り返った。
「ボーマ、どこへ行くんだ」
 ダイブルームを出て行こうとしていたボーマが、見つかったか、という風な表情でこちらを向き、
「いや、腹が減ったからさ」
と肩をすくめた。
「また買い物か?」
「うん。最近、うちのビルの近くにたい焼き屋ができたのを思い出して」
「じゃあ、ついでに缶コーヒーでも買ってきてくれ」
「甘いやつ?」
「ああ。一番甘いやつな」
 わかった、と手をあげて、ボーマは出て行った。

 ギシ、と椅子をきしませて、イシカワは背骨を伸ばしながら欠伸をする。
「……くぁ……さすがにこの時間になるとキツいな……」
 時計を見て、ため息をつく。これで15時間、ダイブルームに篭りっきりの計算だ。
 ボーマの買い食いも頻繁になるはずだ。
 イシカワも始めはいちいち見咎めていたが、もう注意する気力もない。
 ついでに使い走りをさせたくもなるというものだ。

「よぉ、やっぱりまだ頑張ってたか」
 不意に扉が開き、サイトーが入ってきた。手に何やら紙袋を持っている。
「サイトーもまだいたのか」
「ああ、さっき新人の訓練から帰ってきたところだ」
 この15時間、モニターと義眼の大男しか見ていなかった目に、スナイパーがやけに爽やかに映る。
 汗を流したのか、サイトーの体から風呂上りのほのかな熱気と清潔な石鹸の香りが漂ってきて。
 ふとイシカワは妙な気分になりそうになり、慌てて頭を振った。
 イシカワのその様子に、サイトーはちょっと眉を上げた。
「すまん、邪魔だったか?」
 こんな気遣いも疲れた体には嬉しい。
「いやいや、まさか。ちょうど休憩中だ。……ところで、その手に持ってるものは何だ」
「ああ、これは差し入れ」
 茶色い紙袋をがさがさと開き、サイトーが取り出したものは、魚の形の菓子だった。
「……これか」
 ボーマが買いに行ってるものは、と苦笑する。
「なんだ、もう食べたのか?」
「いいやまだだ。ひとつもらおう」

 イシカワはたい焼きを受け取ると、頭からかじり付いた。
 開店したてでサービスしているのか、思いのほか餡子がたっぷり入っていた。
 少し冷えた餡子が口の中に広がり、甘さが疲れた体に染み渡る。
「美味い」
 イシカワは思わず呟き、たちまち平らげてしまった。
「そうか。じゃおれもひとつ」
と、サイトーも紙袋からもうひとつ取り出す。
 さっきまでボーマが座っていた椅子に腰掛けて自分もたい焼きを大きくほおばった。
 すると、
「……甘いな」
と、たちまち微妙な表情になるスナイパー。
 明らかに甘党ではない男だ。
 しかし、イシカワの美味そうな様子と、空腹も手伝って思わず大口でほおばってしまったのだろう。
「う……んぅ……」
 ぎゅっと目を閉じ、頭を抱えて口を動かしている。
 たっぷりの餡子が口いっぱいに広がり、甘いものの苦手なサイトーの舌とせめぎ合っているのが表情でわかる。
 ろくに咀嚼せず、すぐにごくりと飲み込む音がした。
「ん……ふぅ」
 ほっとしたようにため息をつくサイトー。
 その様子がおかしくてイシカワは思わず噴き出しそうになった。
 だが、その笑いをどうにか噛み殺し、
「もったいねぇな。味わって食わねぇなら残りはおれにくれ」
と、わざと渋面を作って片手を差し出した。
 どうせ食べるなら楽しく食べたいものだ。イシカワは内心ほくそ笑む。
 といっても、サイトーの食べ残しを食べることに楽しさを覚えるというわけではなく、
「いや、食いかけじゃ悪いし」
と言う、すまなそうな、しかしこれ以上食べられないのは明らかなスナイパーの困った表情を拝めるからなのだが。
「いいから。どうせ食えねぇだろ」
 よこせよ、とさらに手を出した時。

 しゅっと扉が開き、
「ただいま〜」
と、ボーマの能天気な声が入ってきた。
「あれ、サイトーもたい焼き買ってきたのかぁ」
 のんびり言うボーマの手にも、紙袋がふたつ。
「一体いくつ買ってきたんだ、お前」
 眉を寄せるイシカワの言葉には耳を貸さず、ボーマはサイトーの手の中の食べかけのたい焼きを目ざとく見つけた。
「あ、サイトー。食べ切れないんだろ、甘いからなこれ。もーらい」
 ひょいぱく。
 サイトーが何か言う暇もなく、あっさり手の中のたい焼きをかっさらって口に入れたボーマは、「う〜ん、美味い!」
と、満足そうな笑顔を満面に浮かべた。

「……じゃあ、おれは帰るから」
 もぐもぐと口を動かしているボーマを呆れたように見たサイトーは、これを区切りとばかりに立ち上がった。
 持っていた紙袋をボーマに差し出し、
「残りはふたりで食ってくれ」
と言い置いてダイブルームを出て行った。
「いいやつだな、サイトー」
 にこにこと上機嫌なボーマに対し。
(いいとこだったのによ)
 サイトーとのほのぼのした駆け引きをあっさり終結させられたイシカワは不機嫌な顔である。

 ちなみに、その数分後。
「そういや、ボーマ。おれのコーヒーは」
「あ、ごめん忘れた」

                                                  


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