そばにいて黙るとき



 新浜の夜景を見ながら、トグサは熱い缶コーヒーを両手で握りこんだ。
そのままコーヒーをごくりと飲み、熱い液体がのどを下りていく感覚に目を細めて大きく息をついた。

「もう夜になると少し寒いくらいだな」

 隣に立って煙草を吸っている同僚に声をかけたが、やはり返事は返って来ない。
今回の仕事でバトーの心を覆った過去の影は、まだ完全には払われていないようだ。

 ここがロマンチックなレストランか何かで、目の前にフルコースでも並んでいれば最高なのに、とトグサは思ったが、あいにくここは職場のビルの殺風景な屋上だし、自分たちはまだ報告書をまとめるという仕事が終わらず、休憩がてら上がってきただけなのだ。
 しかも隣に居るのは優しい妻でも美人の愛人(いないけれど)でもなく、同僚の無骨な大男である。

 風が少し強くなり、バトーの煙草の煙が不規則に流されていく。

 今日、サトウとかスズキとかタナカとかとってつけたようなふざけた名前のCIAの男にトグサが掴みかっていたとき、バトーが素子に言った言葉を、帰ってから素子から聞いた。
 聞いたとき、トグサは不思議な気持ちになった。

 バトーの横顔をじっと見つめる。夜景をバックに煙草をふかす同僚は、いつにも増してアウトローな雰囲気があり、とても警察官には見えない。

「何見てんだよ」
「見とれてんだよ」
 不機嫌に尋ねたバトーは、トグサが冗談で返すと、こちらを見もせずに鼻を鳴らした。

(ここはおれたちの街だ、か)
 バトーの言葉は、トグサに重要な意味を持って響いた。




 バトーをいつも身近に感じてはいる。一緒に仕事をしていて冗談も言い合うし、怪我でもすれば親身になって心配してくれる。
 だが、トグサは自分とバトーとは根底にあるもの、ルーツとでも言うべきものがそもそも交わっていないと常々感じていた。
 だが、それは他の仲間にも同じことが言える。
 トグサは9課に来るまで、身元のはっきりしない者と交わったことがなかった。もちろん、犯罪者やほんの一時すれ違っていく人々は別だ。
 職場の仲間や上司、学生時代の友人。そして家族。皆、どこから来たどういう人間なのかよく知っている人たちばかりだった。

 ところが公安9課へ来て、初めて出自のはっきりしない人間たちに囲まれて仕事をすることになった。
 トグサは今の仲間の、出身はおろか正確な経歴も年齢も、フルネームすら知らないまま共に仕事をしている。
 9課に入ることになり、皆と顔を合わせる前、それを不安に思ったこともあった。

 だが実際は、9課に入ってから仕事についていくのに必死でそんなことを気にするどころではなかった。すっかり慣れた今では、皆、信用できる人間と分かり、信頼して命を預けることだってできる間柄になっていて、気がつけば何の問題もなく過ごしている。

 だが、その問題はバトーのこととなると別だ。

 一緒に組んで仕事をすることの多いこの同僚は、一番多くの言葉を交わしているし、一番身近に感じている人間だ。
 トグサはバトーの好きな煙草の銘柄を知っているし、好きな酒の種類も知っている。銃を撃つ時の癖も知っているし、昨日、イシカワに愛車の色がくすんできてると指摘されて本当はすごく気にしていることも知っている。

 それなのに、バトーがどこで生まれたのか、トグサは知らない。バトーが生まれたとき、親につけられたはずの本名も、トグサは知らない。なぜレンジャー部隊に入ったのかも、完全義体になった経緯などももちろん知らない。
 トグサについても同じようにバトーが知らないことがあることは確かだが、それらは今のトグサを見れば想像できる範囲内でしかない。

 過去を知らないから、未来も不安になる。
 バトーはいつか、過去の居場所に戻ってしまうんじゃないだろうか。
 本名で呼ばれる、居心地のいい場所が余所にあるんじゃないだろうか。
 そもそも、バトーの人生の中で公安9課は一時身を置いて金を稼いでいるだけの仕事場であって、この先ずっとここに居るとは限らないんじゃないだろうか。
 バトーと親しくなればなるほど、その違和感は大きくなっていた。

 だが、今日バトーは、『ここはおれたちの街だ』と言ったという。
 この男はこの街を自分の居場所として、守るべきテリトリーとして認識しているのだ。
 それは、トグサの違和感を拭い去るには十分な言葉だった。




「そろそろ戻るぞ」
 気がつくと、煙草を吸い終わったバトーがこちらを向いていた。義体の感覚を切っていなかったのか、少々寒そうにポケットに手を入れている。

「考え事は室内でしろよ。風邪ひくからな」
「生身のくせに?」
「そうだ。生身のくせに」
 トグサがバトーのいつもの口癖を真似ると、バトーはやっと表情を緩めた。

 くるりと身を翻して階段の入り口に向かうバトーをトグサも追う。
 背中の銀髪が風に煽られて広がっているのを見ながら、改めて思った。
 相手の過去を知らないことで自分たちを隔てているものがあると思っていたが、それは自分の勝手な思い込みだった。過去など、そう大して重要なことではなかったのだ。

 今、バトーの居場所がここにある。トグサの居場所もここにある。

 それが分かったからもういいんだ、相棒。
 トグサはバトーの広い背中に向かって呟いた。

                                                 

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