左眼に気をつけろ




「子供って、可愛いよな」
 サイトーが唐突に呟いた。

 パズはぎょっとして、サイトーの顔を見下ろす。
「……何だ、急に」
「いや、別に……」
 言葉を濁し視線を外したサイトーに、
「……その話は、後でもいいか?」
と、パズはむっとした表情になった。

 ここはパズのセーフハウスのベッドの上である。
 キスをしながら縺れ合うようにして倒れこんだベッドの上で、サイトーが不意に妙なことを言い出したのだ。 
 パズは組み敷いた相手の服に手をかけると、
「くだらねぇこと言うほど余裕があるってことか?」
と言うなり、腹立たしげに服を引き裂いた。


−−−

 室内は二人の熱気が立ち籠めていた。
 汗と体液にぐっしょりとまみれたサイトーは、動けないほど疲れきって胸を上下させている。
 パズはサイトーから自分のモノを引き抜いて身体を起こすと、後始末をしようともせず相手の顔を見下ろした。
「……で、子供がどうしたって?」
 上から冷ややかに投げられた言葉に、(コトの最中にうかつに物を言うもんじゃねぇな)と思ってサイトーは苦笑した。まだパズとのこの行為に慣れていないサイトーだったが、冒頭のやりとりのこともあって今日は相当執拗に責められた。
 スケコマシの性分なのか、こういう時の雰囲気を大切にすることにこだわるパズは、サイトーがちょっと自分から気を逸らせたと感じるとたちまち不機嫌になる。
 今もサイトーが指一本動かせないほどくたびれ切って、喋る元気もないことを分かっていてこの男はわざと尋ねているのだ。
 プライドの高い、子供じみたエゴイスト。
「何笑ってんだよ」
 体液に濡れたサイトーの腹が小さく波打っていることに気付き、パズがますます機嫌の悪い声を出した。

「……こないだ、トグサの一家に会ったんだよ」
 しばらくして、息を整えうっすらと目を開いたサイトーは、天井を見上げたまま言った。
「郊外のショッピングセンターで買い物をしてたんだが、向こうから絵に描いたような仲良し一家が歩いてくると思ったら、トグサで。おれは気付かないフリをして通りすぎようとしたんだが、あいつ、こっちへ手を振ってきやがった」
 サイトーはその時のことを思い出したのか、クックッと笑った。


−−−

 家族には勤務先が伏せてあるからといって、家族の前でお互い知らぬふりをしなければならないということはないのだが、あまりにあけっぴろげな身振りをされ、サイトーは反応に困って曖昧に笑顔を浮かべた。
 相手は家族連れだ。無視してさっさと立ち去れる雰囲気でもないため、商品を満載したカートを押してゆっくりと近づいてくる一家を仕方なく立ち止まって待っていた。その間、4箱のボックスティッシュと12ロールのトイレットペーパーが公安9課のスナイパーの腕の下で所在無く揺れる。

 サイトーの前まで来ると、「職場の方?」とトグサの横の女性の口が動き、そちらからも親しげな笑顔を向けられ、慣れないサイトーは挨拶の言葉に詰まって戸惑った。
「……どうも」
 9課で会うトグサに『どうも』などと言ったことは未だかつてなかったが、それ以外に言葉が浮かばず、仕方なくそう言って妻へ軽く頭を下げる。
「こんなところで会うなんて珍しいよな。買い物か?」
 のんきなトグサの言葉に、おれの格好を見りゃ分かるだろと言い返しかけたが、トグサの腕の中の幼児とふと目が合い、言葉を飲み込む。気付かないうちに、腕が触れそうなほどの近距離から見上げられていたのだ。
 トグサに抱かれた幼い男の子はおそらく下の子供だろう。娘の方は、妻の後ろに完全に身を隠して母親のお尻に抱きついている。やめなさい、と母親に叱られているが、人見知りなのか頑なにお尻に顔を埋めたまま出てこようとしない。
「だぁれ?」
 つぶらな瞳の息子の方は視線をひたりと見知らぬ大人に据えたまま、興味深々に父親に尋ねている。
「パパの会社の人だよ」
「ふぅん」
「こんにちは、は?」
 父親に促されると、コニチワァ、と舌足らずで無造作な挨拶が小さく聞こえた。
「……こんにちは」
 子供の視線を受け、サイトーもできる限り丁寧に挨拶を返す。子供を見慣れないサイトーは、果たしてこの子が何歳くらいなのか想像もつかなかったが、『ぼうや、いくつ?』などという質問をしようなどという考えもまた、スナイパーの頭には露ほども浮かばなかった。
「非番の日に外で会うなんて珍しいな」
「そうだな」
「最近はずっと雨でしたけど、お休みの日にいい天気になってよかったですわね」
「そう、ですね」
「おかげで子供が外に行きたいってうるさくてさあ」
「そうか。父親ってのは大変だな」
 サイトーとしては早く立ち去りたいのだが、トグサ夫婦に代わる代わる話しかけられるので、気持ちを抑え、律儀に相槌を打つ。

 と、突然、サイトーは左頬に柔らかい感触を感じてハッとした。
 トグサの息子が、サイトーの鷹の目に興味をひかれたのか小さな手を伸ばし、いきなりぺたりと顔に触ったのだ。子供の甘ったるい香りがサイトーの鼻をくすぐる。
「こら、やめなさい」
 父親に腕を取られた息子は、
「や!」
と叫ぶと身を捩ってサイトーの方にさらに手を伸ばそうとした。
「人の顔を勝手に触っちゃだめだよ」
「や!」
「や! はこっちのセリフだろ」
「や、なの! や!」
 理不尽な癇癪を起こし、ついにトグサの腕の中で暴れだした幼児が、伸び上がった拍子にバランスを失ってサイトーの方へ倒れこんできた。
「うわっ!」
 サイトーは咄嗟に、両手に持った荷物を放り出して子供を抱きとめる。  
「悪い、大丈夫か」
 トグサがすぐに取り戻そうと子供に手をかけたが、何を思ったか息子の方は、
「いやー!」
とサイトーの首にひしと縋りついてきたのだ。
(く、苦しい……)
 遠慮なく首を締め付けてくる小さな腕に顔をしかめたサイトーだったが、引き離そうにも子供の小さな身体はうかつに力を入れるとくしゃりと潰れてしまいそうなほど柔らかい。
 ぎこちない抱っこの体勢のまま固まっていると、男の子はしたり顔で手を緩め、サイトーの顔に自分の鼻先を擦り付けるようにして黒い左目のカバーをじっと覗き込んできた。
 小さな唇から涎がたらーんと伸び、ぎょっとしているサイトーの服に滴が垂れる。

 思わぬ展開にトグサは何を期待したのか息子を取り返すのをやめ、夫婦で固唾を呑んでこちらを見守っている。
 詰まらせているのかスピスピという可愛い鼻息が聞こえるほど顔を寄せてきた幼児は、興味深々に小さな手のひらをサイトーの顔へ這わせていく。鷹の目は子供の力でどうかなるほど柔なつくりではないが、左目の上に小さな指が直接触れると、何をされるのかと流石に息を呑んだ。
 しかし、幼い指はあっさり鷹の目を通り過ぎ、口の方に降りていく。
 サイトーがほっとしていると、突然、子供の身体が伸び上がった。サイトーの目の前で子供の小さな口がぱかっと開き、ピンクの舌が見えたかと思うと、なんといきなり鷹の目をぺろーんと舐め上げられたのだ。  
「?!」
 完全に予想外の行動に、サイトーは凍りつく。
「こらっ!」
 トグサが叫んですぐに子供を引き離したが、サイトーの左目からは、舌を出したまま引き剥がされた子供の口から伸びた透明な涎が糸を引いている。当の本人はというと、してやったりという満足そうな表情だ。
「すっすみません! 本当にすみません!」
 妻が慌ててバッグからハンカチを取り出し、必死で謝りながらこちらへ差し出した。
「あ……いや……」
「ごめんごめん、こいつ興味のある物は何でも舐める癖があってさ」
 トグサはというと、面白そうに笑いながら謝っている。
 左目をハンカチで拭いながら(わかってて見てたんじゃねぇだろうな)とサイトーはトグサを睨みつけた。


−−−

「……で?」
 パズは煙草を咥え、サイトーをじろりと見下ろした。
「なんでそれを、おれとこれから寝ようって時に思い出したんだよ?」
 尋ねながらも、理由には気付いているようだ。
「……」
 サイトーが黙ってにやりと口の端を上げてみせると、パズは不機嫌にそっぽを向いてしまった。
 サイトーが妙なことを口走る直前、パズも鷹の目を舐めていたのだ。もちろん子供のように無邪気な行為ではなく、意図を持った、淫靡な舌つきで。
「ガキと一緒にしやがって」
「違うと思ったから、子供は可愛い、と言ったんだ」
「ふざけるな」
 煙草を灰皿に押し付けたパズは、サイトーの上に馬乗りになってきた。
「じゃあご希望通り、可愛く舐めてやるよ」
 言いながらにやりと笑い、屈みこんで鷹の目をぺろりと舐め上げる。
「……くだらねぇこと言いやがって。鷹の目の機能が狂うほど舐め回してやる」
 肌と鷹の目の境目をパズの舌が這い、口付けられる。トグサの子の甘い香りとは真逆の、苦い煙草の香りがサイトーの頭を痺れさせた。
「……っ、政府の備品に、そんなことができるなら」
 やってみやがれ、と熱い吐息の合間に呟く。
 パズは低く笑うとサイトーをきつく抱きしめ、今度は唇にキスを落とし、唇の間に舌を挿し入れてきた。ゆっくり、深く口内を侵していく。
 パズが本当に狂わせたいのは、鷹の目などではなく、その奥の奥。パズが愛してやまない、サイトーのゴースト。

「他のことなんか考えられないくらい、狂わせてやるよ」
 パズに甘く囁かれ、サイトーは体の奥でゴーストが震えるのを感じて右目を閉じた。
 

                                                  


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